「水面に映るは」

 兄がいたのは、私が使っていた水鏡の淵だった。

 胡座をかき、じっと水面を眺めている。

 その水鏡は代々ヒメが受け継いだもので、他の者にとってはただの池に過ぎない。

 朝日の煌めく水面。

 その照り返しが兄の顔に映り込んでいた。

 その水面が、ふっと揺らぎを止め、1枚の鏡になる。

 その中に映る兄の痩せた頬や鋭い眼光から、彼の心労が思いやられる。

 そして彼もまた、鏡の変化とそこに映った私を認めたのだろう。

 驚き目を零れ落ちそうなほど見開き、立ち上がった。

 その振動と、縁の砂が落ち、水鏡が波立つ。


「お前っ・・・」


 朝日の中で私を見た兄は目を見開き、そうポツリと呟いた。

 溢れるような呟きであった。


「お兄様、遅くなり申し訳ありません。」


 私は膨らんだ腹を庇いながら頭を下げる。


「なぜ・・・

 どうやってここへ来たんだ?

 怪我は、こんな体で遠いところを、もし何かあったらお前!!!」


 兄は駆け寄って私の肩を掴み、上から下まで何度も確認しながらそう言った。

 その様子に、彼の根本は変わっていないのだと少し安心する。


「何を笑っているんだ。」


 呆れたような物言いに、首を振って、兄を見上げる。

 彼の心に巣くった孤独が見える。

 漆黒の瞳の向こうに、虚が、そしてその虚に怯える兄が見えた。


(時を経て兄は変わったかも知れない。

 私が変わったように。)


 だが、そんな恐怖の中でも必死に狭穂たろうとする兄が見えた。


(変化は当然、自然の成り行き。

 そして私達に変わらぬ部分があることもまた、当然、自然のこと。

 兄も私も、この佐保に生を受けたヒコヒメ

 その血が変わることはない。)


「お兄様と、このと、運命を共にするために参りました。」


 そうきっぱりと言うと、兄は少し黙ってから、一つ頷き、重い口を開いた。


「こうなる前に気付くべきであった事が、沢山ある。

 お前にも謝らねばならない。」


 私は黙って首を横に振った。


「天皇の力は如何か。」


 私はまた、首を横に振った。


「そうであろう。

 あ奴は・・・」


 兄はくすりと笑った。

 そして朝日を振り仰ぐ。

 その表情は複雑だ。

 ひどく悔しそうでもあり、清々しくもある。

 悲しげであり、諦めた様でもあり、何か期待を孕んでいる様でもある。


 兄もまた、私の知らない間に大人になり、ヒコとなったのだろう。


「八百万の神の宿るこの土地で、神の力を継ぎながらも自然と別れ、人として強く生きる道を選ぶあ奴の国は、果たして豊かなものとなるだろうか。」


 私は今度は首を縦に振った。


「私は、そうである未来を信じます。」


 兄は穏やかに目を閉じた。


「この戦、多くの人を不幸に巻き込むだろう。

 だがそうしてしか私は、我々は、母のように佐保の山になる方法は無い。

 母の残り香の様な力で支えられていたこの佐保の力は、もう私達を受け入れるほど強くはないのだ。

 弱い我々が、最後に遺された還り道は・・・」


 兄が何を思っているか、私には分かった。


 我々は弱くとも古代神代の力を受け継ぐヒコヒメ

 地に降りた神が還される方法は、ただひとつだ。


 水鏡に、朱が差したかと思うと、燃え盛る炎が姿を表した。

 煌めき躍る聖なるその炎は、年に一度行われる

 この美しい炎に送られる事でしか、この神聖なる佐保を閉じ、真に天皇の国とすることは出来ないだろう。


 その炎が映るのか、朝日が映り込んだのか、それともまた別の理由があるのか、兄の瞳は微かに光を灯していた。


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