橘先生


「お昼寝かい、染井さん。」


 優しい声にはっと体を起こす。

 どうやらぼうっとして半分眠ってしまっていたようだ。

 ここのところ色々なことがありすぎて疲れているに違いない。

 穏やかな笑顔で私を見下ろしているのは橘先生だ。

 生物室で図書室から借りた本を読んでいるうちに寝てしまったらしい。

 最近夢見が悪いためか寝た気がしないのだ。

 間違いなく効率が低下している。


「すみません、寝るつもりじゃなかったんですけど。」


 頭を掻く。


「いやぁ、春だからね。

 ついつい昼寝をしたくなるのはわかるよ。」


 うんうん、とうなずく先生の顔は、どこか疲れているように見える。

 異動してきて会議続き、新学期の準備が立て込んでいるとなれば、先生も忙しかったのだろう。

今日は少し落ち着いているのか、朝も生物室にいたな、とぼんやりと思う。


「・・・私は最近どうも夢見が悪くて。

 そういえば連絡があってね。

 グループ研究を発表する研究発表会は、7月4日に決まったそうだ。

 今の計画通り進めば、余裕を持てる。」


 さらりと通り過ぎて行った一言に引っ掛かりを覚えるが、話を引き戻すきっかけを掴むことはできず、とりあえず私は一つうなずいた。

 先生も夢見が悪いから何だというのだろう。

 私も夢見が悪いのだ、と伝えられるのか問われると答えは否だ。

 夢の話だなんて、そんなこと、それも大昔に亡くなった姫に憑かれてしまったからその夢を見ているだなんて、言えるはずもない。


「そういえば、桜の方は順調かな?」


 頭を悩ませている課題をつかれ私は頭を掻く。

 特に昨日判明した『桜が自分の意志で咲かない』なんていうことを、生物の先生に告げるのはひどく躊躇われた。


(私自身、いまだに信じられない。)


「いえ、なかなか・・・。」


 結局そう曖昧に答えた。


「まぁ私は焦ることはないと思うのだよ。」


 先生はそう言って窓の外を眺めた。

 姿勢の良い背中は、思いのほか広く大きい。


「咲かない桜はないだろうと、私は思う。」


 昨日、杉本君が言っていたのとよく似たことを言うと私は首を傾げた。


「咲いた桜は、散るけれど。」


 続けられた言葉もよく似ているのに、その冷たさとニュアンスは全く違う。

 杉本君は、咲いて散ることは世の常、と言ったニュアンスだった。

 だが先生は違う。

 朝も感じたが、花が散る事を、悲しんでいる。

 むしろ、桜が散る事に怒りを感じてすらいる。


(どうして?

 桜が散るのは、そう、『ことわり』であるはずなのに。)


 そして杉本君が言っていた言葉を思い出す。


 ー桜は美しくも、無情な世を表します。

 そして命をも。ー


 橘先生が何を考えているのかなんてわからないし、桜にどんな思い出があるのかもわからない。

 ただ、あんなにも穏やかな先生を豹変させる何かを、桜は秘めているのだと確信する。


ーそれでも花を、世を、命を思ってしまうのが人。ー


(何かつらい思い出があるのかもしれない。)


「まぁ、焦ることはない。」


 先生はふっとまたいつもの穏やかな表情になってそう言った。


「いえ、なるべく早く桜を終わらせて、研究に取り掛からないと。

 予定は予定であって、何があるか分からないと兄貴先生・・・いえ、秋篠先生に学んできましたから。」


 大抵の先生は『兄貴先生』が秋篠先生のことであると知っているが、橘先生は赴任したばかりで知るはずもないと言い直した。

 兄貴先生はルーズだから予定の大幅な変更も頻繁にあったし、予定外のイベントを持ってくることも多々あった。

 そのせいでメインである研究が押されようと気にしない。

 毎日の部活がドタバタだった。

 だが考えてみれば目の前の橘先生は違う。

 真面目そうだし、きっと兄貴先生のようなことはないはずである。


「なるほど、兄貴先生とは、言い得て妙だ。」


 橘先生はおかしそうにくすくすと笑った。

 その様子に私は目を瞬かせる。


「秋篠先生にずいぶん困らされていたようだね。」


 目を細めておかしそうに言われ、決まり悪くなって俯いた。


「秋篠君は、私の教え子でもあるんだよ。」


 予想外の言葉に私ははじかれたように顔を上げた。


「そうなんですか。」


 先生はゆったりと一つ頷いて、机に軽く腰掛ける。


「君と同じように、彼女もここの学生だったのは、知っているかな。」


「はい。」


「私は秋篠くんの担任をしていたんだ。」


 先生は優しく私の頭に手を置いた。

 温かい、おじいちゃんの手。

 始めはそんな印象があったはずなのに、次第に何かが変わっていく。

 知り合いであるはずもない橘先生に、胸を締め付けられるような懐かしさが、こみ上げてくる。

 それはどこか、昨日杉本君に感じたのと似ていた。


「もう何十年も前のことになるけれど、ね。」


 そして一瞬、彼の手が私の身体を通り抜けたような不思議な感覚に襲われた。

 気づけば先生の手はもう私の頭から離れていて、不思議そうな顔をして私を見ている。


「どうしたのかな、染井さん。

 花粉症かな?」


 その言葉に私は首をかしげる。


「涙が、出ているよ。」

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