ソメイヨシノ


 今日は登校すると珍しく橘先生が生物室にいた。


「おはよう。」


 眩しげに目を細めて穏やかに微笑む姿は、本当にお年玉をねだればくれそうな好々爺だ。


「おはようございます。」


 机に鞄をおいて、先生の隣に立つ。

 机に広げられたのは、以前野外調査フィールドワークの結果を乗せた地図だ。

 大まかな佐保の桜マップと言えるだろう。

 是非市の観光に役立てていただきたいくらいだ。


「染井さんは、ご実家は東京かな?」


 唐突な問いかけだが、私はその質問はある程度心当たりがある。


「詳しいことは分かりません。

 ですが、祖母が東京の方から疎開したという話を聞いたことがあると、父が以前話していました。」


 佐保姫もこの点は気にしているようだった。


 ー染井ソメイ沙穂サホに憑いた狭穂姫サホヒメ

 佐保サホの咲かないヨシノ。ー


 歌うように呟かれた言葉が頭をよぎる。

 名は体を表すと言う言葉があるが、実際のところ人は名前に左右されるという調査データもあると聞いたことがある。

 2人の姫の「名前は古来よりとても大切な物」という言葉を、軽視するわけには行かなそうだ。


 先生はふむ、と頷いた。


「先祖は染井村の植木屋さんだったかもしれないね。」


 今度は私が頷く。

 明治時代に平民苗字必称義務令が出され、平民も苗字を名乗るようになった訳だが、その際に地名から付けた者も多いらしい。


「その可能性がないわけでは無い、と思います。」


 ソメイヨシノの名前の由来は、半分は東京、半分は奈良にある。

 江戸の染井村の造園師や植木職人達によって開発、育成されたらしいソメイヨシノ。

 西行の和歌に何度も詠まれた奈良の吉野の桜が有名であったことにあやかり、「吉野」や「吉野桜」と呼ばれた。

 だが実際、奈良の吉野に植えられているのはヤマザクラであり、混同の恐れがあると藤野寄命が気づいたのが1900年。

 そこで彼が染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。


「事実かどうかはわからないが、これがもし事実であれば、不思議なご縁もあるものだね。」


 先生の言うことは最もだ。

 科学だけでは解き明かせない不思議な力に巻き込まれていることを、日々痛感する。

 私が巻き込まれたことも、この佐保のソメイヨシノが咲かないことも、狭穂姫のことも、全てが運命のような気がしてきてしまう。


「調べて思ってのですが、ソメイヨシノは悲しい花なんですね。

 全て同じ遺伝子を持ち、ソメイヨシノ同士では区別がなく、交配により種を残すこともない。

 我々人の手を離れれば、絶滅する種です。」


「確かにそう考えることもできる。

 だが、クローンという点では園芸や農業には多い事だ。

 身近な例を挙げるなら、鱗茎リンケイであるチューリップ、塊茎カイケイであるジャガイモ。

木よりも球根の方が絶滅はしにくいだろうが、人の手だけに頼る品種であれば、確かにいずれ滅びるだろう。」


 言われてみたら確かにそうだ。

 決してソメイヨシノに限ったことでは無い。

 それでもやはり、ソメイヨシノに悲しみを覚えるのは何故だろう。


「ソメイヨシノは植樹されて以来、多くの人の思いを託されてきた木だ。

 日本に現在植えられている桜の約8割がソメイヨシノらしい。

 クローンであるソメイヨシノは日本全国どこでも、見た人に同じ印象を与えることだろう。

 60年と言われる寿命に左右されず、群として人の思いに応えるものかもしれない。」


 先生は窓の外の裸の枝を見ながらそう言った。


「それが君の言う、悲しみの根源かもしれないね。」


 先生は窓辺へと近づいた。


「桜は春の嵐の突風をまともに受けて実を飛ばされないようにするために、自ら落花すると考えられている。

 散る前の花弁は花筒の組織に融合していてはずれにくくなっているが、散る直前は、花弁の基部に離層の細胞が発達していて、簡単に外れるようになっているんだ。」


 開けられた窓から桜の枝に手を伸ばす。

 あろうことか、先生はその枝をポキリと折った。

背後からはその表情を確認することはできない。


「思いだの何だのとは言ったが、本来植物にとって花は道具なのだよ。

 咲いたその美しさに惑わされるのは、花粉媒介者ポリネータや人なのだ。

 そしてその道具を発展させ、楽しめるようにしたのが人間。」


 だがそう語る背中はどこか怒りと悲しみを湛えている。

 今の先生の話はどこか狭穂姫を思わせた。

 美しい狭穂姫は、天皇すめらみことを惑わし、寝首を掻くはずだった。

 だが彼女は天皇すめらみことの傍にいる間に多くの葛藤を抱えて、立派なヒメへと成長を遂げた。


 桜の花が散るように、それが2人の運命を分かつことになる。


(狭穂姫はそれを、自ら選んだのだ。)

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