「佐保の刃」


 深夜に出立し、着いたのは明け方だった。

 明るくなるにつれ見えてくる佐保の土地。

 すっかり変わってしまった様子に目を疑う。

 田畑は荒れ、川の水も少ない。

 民は恐れている。


(戦を恐れているのでしょう。)


 急がねばと走ろうとするも、足がもつれる。

 帰ることばかり頭にあって、近づく気配に気づかなかった。


「お主、何者か!」


 むんずとつかまれた腕に振り返る。

 その懐かしい顔に思わず目を見開き、破顔した。

 相手は驚いたように目を瞬かせている。


 彼は兄の乳兄弟。

 私も幼いころよく遊んでもらったのだ。


「まさか、狭穂姫っ!?

 なぜこんなところに!」


 懐かしさに溢れそうになる涙をこらえ、頭を振る。

 彼の質問に答えている暇もないし、答えたところで何の解決にもならない。

 反逆者の私はここにいる時点でもう、都に戻る術を持たないのだ。


「兄上は今どこに?」


 彼も辛いのだろうか、眉間にしわを寄せる。


「なりません。

 貴女がここに来られたことは他言いたしませんから、どうか都にお戻りください。」


 彼もこの戦いが無益であることを理解しているのだ。

 賢い家臣は分かっているのに、力を持つ者は何も分かっていないということか。

 それでは猶の事、兄の傍に行かねばならない、と心は急く。


「いいえ、もう戻れません。

 裏切り者が天皇にお仕えすることなど、できるはずがありません。」


 私の言葉に、彼は悲しげに俯く。


「申し訳ありません、私が傍についておりながら。

 ・・・伯父上とその家臣に唆されておしまいになられた。」


 囁くように告げられた言葉に、一つ頷く。


「私と同じで、兄もまた弱い人です。

 そんな兄を孤独に追いやったのも、また私。

 貴方に罪はありません。」


 そう言い切ると、彼ははっとした顔をしてから、小さく笑った。

 その様子が昔から変わっていなくて、胸が切なくなる。


「狭穂姫は変わりましたね。

 狭穂彦はこちらです。

 御案内いたしましょう。」


 里内を改めて見渡すと、武器が集められ、戦の準備が進んでいるのが見て取れた。

 だが勝てるはずがない。

 天皇スメラミコトの軍は、佐保のもつ武力を遥かに凌ぐ。

 佐保はそもそも、戦の強い国ではなかった。

 沙本之大闇見戸売サホノオオクラミトメというヒメの力が随一で、どこよりも強く護られた国であったのだから。


「兄はお元気ですか。」


 私の囁きに、彼は首をふる。


「昔の、あの少し過激だったが無邪気で笑顔を振りまいておられたころの姿はありません。」


 城の周りは徐々に藁が積み上げられている。

 きっと弓を防ぐために考えたのだろう。

 兄の使う刃はいつも優しかった。

 いつも私のために木の実を集め、母や父のために木彫りの装身具を作るために使われていた。

 その刃が、天皇に向けられる。


「兄の傍にいてくれて、ありがとうございます。」


「いえ、何もできませんでした。」


「いいえ。」


 私は首を振る。

 彼はそれでも、兄の傍にいてくれた。

 佐保から出てしまった愚かな私と違って。

 何を後悔しても、もう始まらない。

 全てはこの佐保を終えるために、動き始めてしまった。


「母ならこういうでしょう。

 全ては運命さだめである、と。」


 彼は穏やかに微笑んだ。


「本当に、立派になられましたね、ヒメ。」


 私は首を振る。


「私はもう、ヒメではありません。

 ただ一つの命、ただ一人の女。

 そして・・・天皇スメラミコトの妻。」


 都を振り返る。

 もう二度と、あの愛され慈しまれた日々は戻ってはこない。

 私は全てを終えるためにここに来たのだから。


天皇スメラミコトの妻として、成すべきことを成すだけです。」


 隣で彼はひとつ、うなずいた。


「ですが、貴方にも民にも、辛い思いをさせることになりますね。

 その点は謝らねばなりません。」


「そんなことは。

 我らも佐保の民。

 貴方方ご兄弟の運命さだめはまた、我らの運命さだめ。」


 真摯な瞳に私も頷く。

 佐保の草木は恐れ慄いている。

 風すらも止んでいる。

 山の上から出てくるのを怖がっているのだろう。

 血の流れる気配に、震えているに違いない。

 母上が悲しまれているのが分かる。


(でもその悲しみの中でも、母は佐保山であり、民と、兄と共に在る。)


「きっと母も、私達の最期を見届けてくださるはずです。」


 目の前の城は、都のものとは比べ物にならないほど質素で小さい。

 だがひどく重く、硬く、そして脅えているようにすら見える。

 門を守る兵のせいだろうか。

 兄の脅えが移っているのだろうか。

 桜が守る聖なる佐保。

 悪者など簡単に入ってくることはできなかったはずだ。


(母がいたころは。)


 私は俯き目を閉じる。


(兄の心に巣食うものを、私は駆逐することが出来るだろうか。)


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