4月6日

「別れ」


纒向珠城宮マクムクタマキノミヤから佐保山までは徒歩でも一晩あれば着く。

獣道も多いだろうが、弱く裏切り者の私にはちょうど良い闇への道だ。

その先に、佐保山になられた闇の名をもつ母上がまっていてくださるのだとしたら、最後まで頑張れるかもしれない。


天皇スメラミコトは戦の準備でお忙しい。

どれほど忙しくとも、一日一度は顔を出してくださる。

そのたびに、私の胸は痛む。

彼は私の心中を思いやり、甘味や面白い絵を必ず土産に持ってきてくださるのだ。


裏切り者の私であるのに。

反逆者の、私であるのに。


そして最後にいつも固く抱きしめ、こう言う。




ーお前は傍に居れ。

私から離れることは許さん。ー




彼が私に初めてした命令だった。

そして私も、彼に初めて、背く。


星明りしかない新月の夜、音もなく部屋を出て、裏口へと歩く。

部屋を抜け出すのは得意だった。

佐保にいたころはよくこっそり家を抜け出して外に遊びに行っては、母を困らせたものだった。

その佐保の幕引きの為に、私は還る。

否、帰る。

母は私に言ったのだ。


ー貴女は覚えておかねばなりません。

外界と交わった貴女はもう二度と、佐保のヒメには戻ることはできない。

これが貴女の望まなかった結果であっても、これから先貴女が何を望もうと。

貴女はもう佐保の一部ではない。

貴女はただ一つの命。ー


兄の言う輝かしい未来は、決して訪れることはないのだ。

私はもう、佐保のヒメには戻れない。

山から引き離された、一人の人。

天皇スメラミコトの妻。


「さようなら。」


泣いてはならないと、言い聞かせる。

天皇スメラミコトが設えてくださった佐保の庭の草木が、名残惜しげに騒ぐ。


「ごめんなさい、でも騒いではいけない。」


寂しいからと佐保山から連れてきた者たちなのに、私はここに彼らを捨ておく。

なんと身勝手なことだろう。

命を粗末に扱う私は、ヒメとしても最低だ。


「許してなんて言わない。

ごめんなさい・・・ごめんなさい。」


草木は静かになった。

最後に枯葉が一枚、風に乗ってふわりと私を追いかけてきた。

まるで行くなと言うかのように。




「ありがとう。

でも、さようなら。」





(さようなら、愛する人。

私はもう、貴男と共には歩めない。

貴方の愛した心の美しい姫は、もうこの世にはおりません。)


季節が移ろいゆくように、世も変わってゆく。

母は全てを予見していたのだ。


(もし私にその力があったのならば、この戦は避けられたのだろうか。)


そう自問して、私は頭を振る。


「きっとこれが、運命さだめ。」


天皇スメラミコトにいただいた、私の心を守るよう呪まじないが懸けてあるという腕輪を胸に抱き、私は駆けだした。

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