野外調査へ
生物室で顔を見合わせた直後の部長の謝罪に、私は目を瞬かせる。
「え!旅行?!」
「ごめん沙穂、急に。
お父さんとお母さんが勝手に決めちゃって。」
目の前で両手を合わせて謝る部長に、罪はない。
彼女のご両親は仕事が忙しくてなかなか休みが取れないらしい。
年に1回、大型連休を取得して家族旅行に行っていることは、お土産をもらっている私はよく知っている。
だがまさかそれが、このタイミングでくるとは思ってもみなかった。
「ううん。
気にしないで、春休みなんだし!」
明るく取り繕ってみるがショックを受けていることは許していただきたい。
ちなみに昨日の今日で、彼女には桜を咲かせるよう教頭先生から依頼を受けたことは伝えていない。
伝えない方が彼女の気持ちのためだとは思うが、今日の活動を思うと伝えざるを得ないだろう。
そうこうしているうちに、橘先生が生物室に顔を出した。
「こんにちは、染井さん。
ええっと、君が部長かな。」
「あ、はい!
部長の
よろしくお願いします。」
「
にこやかな先生の様子に、部長の表情も和らぐ。
だが困ったように下がった眉は健在だ。
「いきなりで申し訳ないんですが、実は明日から8日まで家族旅行に行くことになってしまいまして・・・。」
「おや、旅行かい!
いいね、どちらへ?」
「ヨーロッパです。」
「それは素晴らしい、私も若いころはよく海外へ行ったものだ。
こう見えて一人旅が趣味でね。」
先生は楽し気に笑う。
のんきな方だ、と私は肩を落とした。
桜を咲かせるという課題に生物部で取り組まねばならないというのに。
何度か繰り返している気がするが、当校の生物部、部員は私と、それから部長のたった2人。
「そうなんですね。
私は両親が旅行好きで、毎年行くんです。」
盛り上がっている二人を後目に、今日の活動内容を脳内で練る。
確認すべきことは、この佐保一帯の桜が本当に咲いていないのかということだ。
校内を簡単にしか見ていないから、同じ佐保でも私達が気づいていないこともあるかもしれない。
もしかしたら膨らみかけているつぼみや、どこかで咲いている木がある可能性も捨てきれない。
咲いている木があるならば、違いを比較すれば何かヒントになるはずだ。
もちろんこの調査において、咲いている花を1輪も発見できなかった場合は、正に無駄足となるわけだが、それは仕方がない。
研究に無駄はつきものだ。
それにこれは個人的な意見なのだが、
さて調査範囲だが、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境には「
らしいというのは、奈良県民ながら今回調べるまで知らなかったからだ。
航空写真で見るとその一帯が緑が多いのでわかりやすい。
南北、東西、共に1時間を程度で歩くことが出来そうではある。
問題はこの地域一帯をくまなく確認するのには、何時間もかかるであろうということ。
そこで検討すべきはサンプリングだ。
理想は
何より今回の目標は「桜を咲かせること」であって、研究発表ではない。
地区に漏れ落ちがあるかどうかよりも、ある程度は効率を重視すべきだ。
そこで私が注目したのが「佐保路」だ。
今では知る人ぞ知る存在になりつつあるが、佐保丘陵の南に昔から「佐保路」と呼ばれて親しまれていたらしい通りがある。
これは東大寺の転害門から西へ、現在の一条通りに沿って法華寺あたりまで一直線に伸びており、歩いて40分程度。
ただ残念なことに、私の記憶にある限りこの一条通り沿いに桜は少ない。
となればこの一条通を基軸として、
今日は部長もいることだから、佐保高校を中心に、東を私、西を部長というように手分けして調査すると考えると、2時間、いや、3時間あればそれなりのサンプルを集められるはず。
「それでね・・・沙穂、どうしたの?」
「ああ、ごめんごめん、ちょっと考え事。」
乾いた笑いを浮かべる私に、部長は首をかしげる。
先生は思い出したというように、ぽんと手を叩いた。
「そうだそうだ。
桜の件を何とかしなければいけないね、染井さん。」
朗らかな笑顔に私は困りながらも頷く。
何のことだろうと部長は首をかしげている。
先生は彼女に向かってお茶目にウインクをした。
「実は教頭先生から、入学式までに桜を咲かせるように依頼されてね。」
「ええっ!そうなんですか!
すみません!!
本当にごめん、沙穂!!」
目を見開いた後、慌てて平謝りする部長。
部長は本当に真面目で素直で、いい人なんだ。
「いいのいいの、気にせず楽しんできて。」
「春休みなのだから気にすることはない。
それに・・・桜も焦らずとも咲くものだ。」
窓の外を眺めてぽつりと呟かれた先生の言葉に、私は彼を見る。
穏やかな眼差しが、窓の外の桜の、そのずっと向こうに向けられているように思えた。
「それにしてもまた教頭先生無茶言うね。
どうせ足元見て、部活動運営費のこととか言ったんでしょ?」
教頭先生は非常にフレンドリーな方で、生徒からも好かれている。
そして好かれている分、彼の性格は生徒の多くが熟知していた。
「あたり。」
うなだれる私の様子に、先生は小さく笑う。
「では早速だが、今日の活動内容はどうしようか。
何かアイデアはあるかな?」
黒板の前に3人で並んで立つ。
こうして立つと、案外橘先生は背が高かった。
私はチョークを取り、先ほど考えていた調査の件を伝える。
「なるほど。
いい考えだね。」
「異議なし!」
二人の賛同を得られ、私は口の端を上げて一つ頷く。
確かに桜を咲かせるというのは無理難題だ。
面倒なことこの上ないが、こうして実際に取り組み始めると気分が高揚してくる。
とくに
ほら、部長だって満面の笑みでそわそわしている。
先生だって、笑顔・・・なのはいつものことだが。
「では早速出かけましょうか。」
先生の一声に、私と部長は元気に返事をした。
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