桜涙病


 その音から、頭の中でいくつもの漢字変換がなされ、そしてひとつの結論にたどりつく。


「もしかして、」


 ノートの端に「桜涙病」と書いて見せる。


「あたりです。」


「桜涙病・・・そんな病気があるんだ。」


「僕が名づけました。」


 どこか得意そうに無邪気に笑って見せる。

 一般的な病気なのかと安心したのも束の間、期待を裏切られ、いくらか落ち込む。

 まぁ、一般的な病気であるはずもないか。


「だって、こう呼ぶととてもロマンチックでしょう?」


 確かに、字面だけ見るとなんだかとても綺麗な、繊細な雰囲気がある。

 それは実に字面だけ。

 実際は厄介きわまりない。


「それで、君もなの?」


 名前が分からず指させば、彼は頷いた。


「はい。

 僕、杉本すぎもと 都矢としやも桜涙病です。

 ええっと、染井先輩?」


 彼は私のノートに書かれた名前を確認して呼んだので首肯する。

 まさか他にも同じ症状の出ている人がいるとは思いもしなかった。


「大変じゃないですか、春。

 僕去年初めてだったので、すごく困ったんですよ。」


「そうだよね。

 迂闊に外も見れたものじゃない。」


「まさに、


 世の中に たえて桜のなかりせば

 春の心はのどけからまし


 ですよね。」


 さらりと挟まれた和歌に目を瞬かせてしまう。

 こんな変わった子を野放しにされている学校も珍しいだろう。

 普通であれば間違いなく格好のいじめの的だ。

 堂々としていられるのは佐保高校の変人を受け入れる校風ゆえである。

 だからこそ大学でうまくいかない生徒も多いというのは、先輩から聞いた話。

 そんなことはさておき、この子はきっと、古典馬鹿なのだ。

 知り合いに化学馬鹿や生物馬鹿もいるから、とくに驚くわけでもない。

 古典に疎い私だが、これは聞き覚えがある。

 授業で扱ったのか、どこかで目にしたのか。


「・・・誰の歌?

 どういう意味だっけ?」


「在原業平です。

 伊勢物語、それから古今和歌集、土佐日記にも登場しますよ。

 世の中にもしも桜がなかったら春の心はのどかだろうなぁっていう意味です。

 僕たち、まさにこの歌の通りじゃないですか。」


 古典の話ができるのが嬉しいのか、彼はにこりと笑って見せた。


「確かに。」


 本当にその通りだ。

 桜さえ咲かなければ、私達は泣くこともない。

 のどかな毎日が待っているはずなのだ。


「でも、この歌にはこんな返歌があります。


 散ればこそ いとど桜はめでたけれ 

 憂き世になにか久しかるべき 」


 彼は該当ページを開いて私の方に見せた。

 伊勢物語 八二段「渚の院」である。


「・・・申し訳ないが読む気も起きない。」


「え、嫌いなんですか、伊勢物語。」


「伊勢物語が嫌いってわけじゃないよ、古典全般苦手なの。

 世の中みんな古典好きだと思わないでくれる?」


「それは失礼しました。」


 全く悪びれない風で本を回収する。


「散ればこそ桜はひどく美しい、この辛き世に永久があろうかっていう意味ですよ。 」


 彼はそっと本の文字を指でたどる。


「盛りのまま時を止めることもできなければ、咲かないままの桜もまた、ない。

 止まらない涙も。

 ・・・そして移ろい行くからこそ、花も人の命も美しい。」


 随分と詩的な事を言う子だ。

 これで違和感がないのが不思議なくらいだ。

 だが彼の言うことはふと、今日見た夢を思い出させた。

 強い力を持つ沙穂姫の一族は、彼女の母の代で終わりを迎える。

 あの美しい佐保も、姫を失い唯の野山となる。

 ・・・そしていずれは、宅地になり、わが校が建ったりする。

 あの夢の佐保の、見る影もない。


 彼はひょっこりと視線を私に向けて尋ねた。


「そういえば、知っていますか?

 僕たち、佐保の桜にしか反応しないんですよ。」


 てっきり桜はもう見られないものだと思い込んで2年間過ごしてきた私にとって、それはとても衝撃的な言葉だった。


「嘘、本当に?」


「はい。試してみてください。」


 生物部員として、実験を怠ったことは恥ずべきことかもしれない。


「分かった。

 朗報をありがとう。」


「頑張ってくださいね。」


 彼は不意に時計に目をやって、少し困った顔をする。


「時間過ぎてるや。」


 だからといって急ぐ風でもなく、鞄に本をしまうと立ちあがった。


「じゃ、また。」


 軽く手を上げて去っていく姿に、同じ桜涙病の彼は桜が咲くことを望んでいるのかどうか聞きそびれたと思った。

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