古典好きの彼
私は図書室の奥、全ての窓に背を向ける席に荷物を置いた。
桜の花を見ると泣きだしてしまう私の春の定位置である。
だが荷物を置いてから、桜が咲いていないのだからそうする必要がないことに気づく。
入学式以来桜が咲く季節になると悩まされてきたから、私は高校生活でまともに桜を見ていない。
いつも桜から顔をそらし、歩いていた。
考えてみれば随分寂しい春の過ごし方だと思う。
だからこそ今年桜が咲いていないことに対して悲壮感などありはしない。
むしろ喜ばしいことだ。
でも、私は桜を咲かせなければならない。
マイケルを始めとする生物室の仲間のために。
導き出された結論に、私はまたため息をついて席を立った。
図書館を一周して今回の課題解決につながりそうな本を探してみる。
やはりこの佐保高校という極めて局部的に桜が咲いていないなんて、何か
ならば悪戯のトリックを暴かねばなるまい。
そのためにはやはり、桜や樹に関する知識を集める他ない。
手にした7冊の本を机にのせて、椅子を引いて座る。
私がおいた本の隣に、どさっと重たい音を立てて10冊ほどの分厚い本が載せられた。
「宿題?」
声をかけたのはその本を置いた主、司書の先生。
返却された本を直すらしい。
「違いますよ。
生物部の方の調べ物です。」
手際良く本を片づけていく先生の背中に返事をする。
「だよね。
沙穂ちゃんみたいな子が、今まで宿題放っておくはずないもんね。」
曖昧に笑って私は一番上にあった本を開く。
数学の問題集がまだ終わっていないことは秘密だ。
しかし何事も基礎が大切とは言え、図書館にある本の知識程度で何ができると言うのだろう。
(このくらいでなんとかなっていれば、兄貴先生が・・・)
そこまで考えて、彼女がもはやこの学校の教師でなかったことを思い出す。
思わずバタンと本を閉じた。
「どうしたの?」
驚いたのか司書の先生がこっちを見た。
私は思わず肩をすくめる。
図書館では静かにと、今まで散々言われてきているのに。
「すみません。
ちょっと・・・悩んじゃって。」
「あれ、グループ研究じゃないの?」
私の持っている本を見て、先生は首をかしげた。
「はい。
桜を咲かせろっていう無理難題です。」
「へぇ、それは大変。」
気の抜ける返事に、私はため息をつく。
「他人事だと思って。
まぁ他人事ですけど。」
先生はしばらく考えて、首を横に振った。
「そうでもないよ。
だって、桜が見られないのは寂しいもん。」
窓の外に目を向けているのに気付き、私も椅子の背に身体を反らせて窓の方を見る。
図書室の脇に、西門へ続く桜並木がある。
つまり、窓からは桜並木が見えたと言う事。
ちなみに東の窓からも正面玄関付近の桜が目に入る。
どちらも冬の裸の枝のままだ。
「咲かないなら咲かないで良い気もするんですけれどね。
桜だって今年くらいお休みしたいのかもしれませんし。」
「それはないでしょ。
染井ちゃんらしくない非科学的な。」
冷静な突っ込みに、私は苦笑して再び本に目を戻した。
「すみません。この本探しているんですけど。」
先生に尋ねる男子生徒の声がする。
「これは授業で取り上げられる作品だから、あっちの棚よ。」
「一応さっき見たんですけど。」
「そうなの?
ちょっと見せてね。
・・・ああ、これ今日返却されたばかりかもしれない。」
見覚えのある顔立ち。
ああ、彼だ、この前会釈してくれた子。
「はい、あったよ、伊勢物語。」
「よかった、ありがとうございます。」
佐保高校は学年によって構内履きのスリッパの色が違う。
今年は私たち新3年生が赤で、新2年生は緑。
新入生は青色だ。
彼のスリッパの色は緑。
つまりひとつ下の学年。
「君、本当に好きだよね、古典。」
「大好きです。」
先生の質問にはっきりと答える姿が眩しい。
理系の私には眩しすぎる。
「将来は古典の先生にでもなるの?」
「なれたらいいなぁと思っています。」
「ぴったりじゃない。」
同感だ。
のんびりとした口調は、古典の授業のように穏やかだ。
音読する声も綺麗なことだろう。
彼が古典の先生になったら、ファンもできて、きっと古典が好きな女の子も増えるに違いない。
そんな雑念を払ってから、私はまた樹木に関する本を開く。
今日の部活は午後からだから、ある程度知識を集めることはできるだろう。
そう踏んで取りかかったが思いのほか時間がかかる。
調べものって、たいていそういうものだ。
思ったよりも面倒で、思ったよりも厄介で、気付いたら横道にそれてしまっていたりして、ふと我に返ってあれ、何調べていたんだっけ?とか思ってしまう。
(いけないいけない、気を付けないと。)
案の定、被子植物の項目を読みふけっていたのでページを戻す。
「今年は桜の開花、ずいぶん遅いですね。
むしろ咲かないのかなっていうくらい。」
突然すぐ横からかけられた声に、私は驚いて手を滑らせてしまう。
分厚い本がばたんと音を立てて閉じた。
右隣を見れば、さっきまで先生と話していた男子生徒が笑顔を向けていた。
「あ、驚いた。」
悪意がないかのような顔をしてそう言っているが、明らかに計算してのことだと確信する。
「急に声かけられたら誰でも驚くよ。」
少しむっとして反論してしまうが、彼はどこ吹く風。
「そうですか?」
「そうです。」
なかなか手ごわい相手だ。
後輩だというのに。
「急に桜が咲かなくなっても驚きますよね。」
どうもこの話題が気になるらしく、また話を戻されてしまった。
彼はしばらくここに居座る気らしく、私の正面の席に腰を下ろす。
「そうだね。」
「ま、僕たちにとったら有難いですけどね。」
頬杖をついて借りてきたであろう本「伊勢物語」を開きながら呟かれた言葉に、私は首をかしげる。
「有難いって何が?」
「だって、先輩もでしょう?
おうるいびょう。」
彼の言葉に、私は思わず目を見開いた。
だって、彼は言ったのだ。
先輩も、と。
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