4月2日
「一つの命」
母上の許しが出てから半年、ようやく待ちに待った秋が訪れた。
「兄上!」
佐保の境界辺りで待つと向こうから兄の乗る馬が駆けてきて、思わず手を振る。
久しぶりに踏み入れる佐保の土地は、美しい紅葉の錦に包まれている。
本当は春に見に来たかったけれど、わがままは言わない。
秋の佐保もそれはそれは美しいのだ。
色付く木々、たわわに実る果実、頭を垂れる金の稲穂。
この佐保の土地を清め守る聖樹である桜の紅葉は、殊更美しい。
「良く帰ったな。」
1年半も会わなかったが、彼は何ひとつ変わっていない。
天皇と初めて顔を合わせた時はあれほど失礼な態度をとり、佐保を出る時もあれほど拗ねていたのに、そのとげも溶かされたかのように今は笑っている。
少し見ない間に、彼は少し大人になったようだ。
私がいない間もきっと、この佐保の野を駆け山を歩き、母の教えに沿って守ってきたのだろう。
そう思うと家族で独りだけが遠くに離されてしまったようで寂しく感じた。
都の我が家には小さな佐保の山があるが、帰ってきてみるとやはり本物の佐保はまるで違う。
庭などに納まりきらぬ、美しさと、命が溢れている。
「兄上もお元気そうで何よりです。
佐保の秋もやはり美しい、都などかないません。」
「それはそうだろう。」
自信に満ちたその姿に、私は自然と微笑んだ。
ここよりも素晴らしいところなど、私は知らない。
ここは、この世で一番美しい。
川のせせらぎも、風の声も、どれをとっても、一年前と何一つ変わってはいない。
私の大好きな佐保のままだ。
兄の笑顔に、思わず馬をせかしてしまう。
「そう急ぐな。」
「だって母上に早く会いたいのですもの。」
「いつまでたってもお前は子どもだな。」
兄はそう言って馬を駆けさせる。
「母上に怒られるぞ。
いつもおっしゃっているではないか。
母上はこの佐保の土地に同じ。
佐保の山に同じ。」
「いつも私達と共におられる!」
私は言葉を続けて小さく笑う。
風が髪や袖を優しく吹き流す。
佐保の山が、私を歓迎してくれているのだ。
道端の秋草が咲き誇り、色付いた葉が舞う。
鳥が馬と競争する。
「そうですね。
この佐保の美しさは、母上そのもの!」
この時私は、その強い母がいなくなってしまうことなど、考えもしなかった。
だから私を追いかけてくる兄の躊躇う顔を振り返ろうだなんて、思いもしなかったのだ。
「母上!」
馬から飛び降りて、母の背中に駆け寄る。
「沙穂姫、まぁ。」
穏やかな微笑みの母に思わず抱きつく。
「大きくなりましたね。」
「そうかしら。」
「ええ、まだ心は幼いままのようですが、美しくなりました。」
思わぬ賛辞に照れてしまう。
「
そしてまた、貴女も。」
穏やかな母の言葉に、くすぐったくなって小さく笑う。
正面から見つめる母の瞳は昔と変わることなく、闇よりも深い黒だ。
この世の光を全て吸い込んでしまうような、漆黒。
誰よりも黒い瞳は、闇を見通す力を持つ。
私の心など見透かされて当然であり、母が「
愛されているか、愛しているのか、なんて考えた事もなかったが、そう言われるのは妙に嬉しく感じる。
「でも私は母上のことも変わらず愛しているわ。」
母は穏やかに一つ頷く。
「もちろん、兄上も!」
振り返ってそう声をかける。
声をかけられた方ははっとしたように無理に笑った。
「どうしたの?」
抱きついていた母から離れ、兄の傍へ歩み寄る。
振り返った直後の兄の顔は、今まで見たことのないものだった。
暗く荒んで、まるで何かを憎んでいるかのような表情に見えた。
この佐保に似つかわしくない。
狭穂の名を持つ彦に、相応しくない表情だった。
母を振り返るが、何も言わない。
いつもであれば咎めるに違いないのに。
―狭穂彦たるもの、己にとらわれてはなりません。
佐保の意思に、生きなさい。―
もう一度兄を振り返る。
「・・・兄上?」
説明を求めるように名を呼ぶのに、兄は首を振って踵を返した。
こんなことは初めてで、唖然と彼の背中を見送る。
「時は満ちたようです。」
私の背中にかけられた声に、ゆっくりと振り返る。
「貴女に言わなければならないことがあります。」
母が「言わなければならないこと」を告げる時、それはとても大切なことを告げる時だ。
私の本質にかかわる事、佐保の事、そして未来の事。
母の言葉に無駄はなく、全てが真である。
「はい。」
だから私は畏まって続きを待った。
「貴女はもう、この土地の者ではありません。」
鈍器で殴られたような衝撃があった。
「母上、私の心はいつも」
「貴女の気持ちはわかります。
ですが最早この土地と共に生きる、佐保の姫ではありません。
この国を統べる、
急速に母の存在が遠くに行ったように感じる。
孤独な都での生活から解き放たれ、ようやく故郷に戻ってこれたと思ったのに、ここはもう、自分を受け入れてくれる場所ではなくなってしまったのだ。
母の言うことは正しい。
私はもう、佐保から嫁いだ身。
この佐保に帰ってきて、それをひしひしと感じる。
佐保は私を歓迎してくれるが、それは帰郷を喜んでいるのではない。
来訪を、喜んでいる。
「貴女は覚えておかねばなりません。
外界と交わった貴女はもう二度と、佐保の姫には戻ることはできない。
これが貴女の望まなかった結果であっても、これから先貴女が何を望もうと。
貴女はもう佐保の一部ではない。
貴女はただ一つの命。」
私は俯いて小さくなった。
都に行くまで私は孤独を感じたことはなかった。
この佐保にいれば、決して一人ではなかったからだ。
私は兄である彦とただ一対の姫。
いついかなる時も兄と共にあった。
私は佐保の一部であり、佐保は私であり、母であり、祖先であり、神だった。
佐保は私達の全てだった。
そして母の言葉は佐保の言葉。
強き力を持つ言葉に、何人たりとも逆らうことはできない。
きっと
だが、そうではないかもしれないと、最近思う。
彼は佐保を抑えた。
それは今はまだ名ばかりで、実際のところ母が治めていることに変わりはない。
だがその次はないのだ。
私は実る前に刈られた稲穂。
この佐保を豊かにすることはなく、佐保の民と佐保の土地の神をつなぐ姫としての役割を果たせるものは、もういない。
否、そもそも生まれたときから、私にはその器はなかった。
この佐保は、母の代で、閉じる。
だから母は私と兄の存在を隠すかのように、この山の中で愛しみ育てたのだ。
佐保の美しさを死ぬまで心に刻みつける、最後の姫彦として。
そしてこの佐保――長きにわたる宿敵の地を、
佐保はそれを称え、歓迎した。
だが彼の治める佐保は、もう私達の知る強き力をもつ佐保ではなくなるだろう。
彼が治めた地方のように、強き神秘を内に固く閉ざし、ただの野山となる。
姫を欠くとは、そういうことだ。
母はそれを認めた。
それは佐保が認めたということでもある。
佐保は私を手放した。
「私は、もう、独り・・・。」
ここに帰れば全ては元通りだと思っていた私は、
私が佐保から引きはがされている間にも、確実に時間は流れている。
私と兄は、佐保は、もう全く別のものとなってしまったのだ。
「貴女は生きねばなりません。
佐保から離れ、一つの命として。
自然に逆らうこととなろうと、佐保を滅ぼすことになろうと、貴女はもう、一人の女。」
その言葉は強い衝撃を伴って私の心を打つ。
見上げた先、漆黒の瞳が、私を映す。
常に穏やかな母の表情であるのに、どこか苦悶が見える。
母の苦は佐保の苦。
母は、何を知っているのだろう。
何を見たのだろう。
「
弱い私は、母の言葉に逆らう力を持たない。
でもそういう意味ではなくて、私は深くうなずき、腹の底から一つ、返事をした。
「はい。」
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