4月3日
「変化」
二度目の里帰りまでも、あっという間だった。
天皇はあれから妻を娶ることはない。
普通であれば、たくさんの妃を連れ、子どもを設けねばならないのに、3年経っても子宝に恵まれない私を傍に置くばかりだ。
愛されていると感じないと言えば嘘になる。
快活で心が広く、生き生きとした彼の傍にいると、佐保にいるときのように心安らぐ。
彼が佐保を奪ったと分かっていないわけではない。
だが彼は最早私の心において、以前の佐保の位置にあった。
つまり、彼は私の全てになりつつあった。
だからこそ、里帰りは嬉しい一方でどこか寂しい。
そのためだろうか。
「気を付けて行ってこい。」
私の手を握り、そう噛んで含ませるようにいう天皇の手を、離しがたく思ってしまった。
もしかしたら、私の中に眠る僅かな姫の力が、警笛をならしていたのかもしれない。
「兄上!」
真っ先に迎えてくれたのは、昨年と同じく兄だった。
手を振る彼の元まで馬を駆けさせる。
「良く帰ってきたな。
元気そうで何よりだ。」
「ありがとうございます。
兄上もお元気そうで、良かった。」
風に乗って散る紅葉。
やはり美しい。
都とは比べ物にならない山の秋がそこには広がる。
昨年と何も変わらぬように見える、秋が。
「宴の準備もできている。
さぁ、帰ろう。」
笑顔の兄上を見ると、丸1年も会っていなかったなんて考えられない。
つい昨日離れたばかりにさえ思えてしまう。
都を離れるときに感じた寂しさは、もうすっかり姿をくらましていた。
「はい!」
馬を駆けさせる。
昔と何も変わらない。
優しい川のせせらぎも、柔らかい秋風も、歌う鳥も、紅葉の香りも。
「兄上、母上はお元気ですか?」
当然の問いかけに、兄は返事をしない。
聞こえなかったのだろうか。
「兄上、母上は」
「山に、なられた。」
聞こえていなかったわけではなかった。
私の乗る馬の歩みが遅くなる。
それに気づいた兄が振り返った。
「母上は先の春、山と共に在るために、山に入られた。」
祖母もそうであった。
ある日、山になる、と言って家を出て、帰らなかった。
我々の姫は死ぬことはない。
山へ還るだけなのだ。
だからもちろん、葬儀もしない。
次の姫が佐保を治める就任の儀式を執り行うだけだ。
祖母の時は母が新たな姫となった。
だが今はもう、ここに姫はいない。
「ではこの佐保は?」
「今は私が治めている。」
兄が静かに言った。
「伯父上も助けてくださっている。
佐保は変わらぬ。
いつでもお前を待っている。」
兄はため息をついて、そっと私の頬を撫でた。
「泣くな。
佐保が悲しむ。」
兄は変わった。
あのころの兄は、私と一緒に泣いていただろうに。
大きくなった。
大人になった。
「もう一度、母上に、会いたかった。」
しゃくりあげる私に兄は小さく笑った。
「おられるではないか。
母上は、山なのだ。
お婆様と同じ。
この佐保の山が、母上なのだ。」
私は頷く。
秋の陽は温かく私達を包む。
この佐保は、やはり何も変わっていないように感じる。
それがまた私には衝撃だった。
祖母が山になったとき、私は佐保が微かに変わったのを感じた。
言葉では表せないが、確かに空気が変わったのを今でも覚えている。
だが、今はどうだ。
当代の姫が山になり後継者も居ない佐保に、私は何ら変化を感じない。
ー貴女はもう、この土地の者ではありませんー
昨年母が言っていた言葉が蘇る。
私の心はもう鈍り、佐保を捉えられなくなっているのだ。
その事実にも私は、涙をとどめることができなかった。
城へ帰ると、伯父上が迎えてくれた。
彼は母の弟で、佐保の外にに出ていたはずだ。
「おや、姫、泣いたのか?」
「母上が恋しいと泣いたのだ。
まだまだ子どもだな、お前は。」
私の代わりに答えてくれた兄が、昔とは違う人に見えた。
もう遠くに行ってしまって、あのころの未熟で弱いものは私だけになってしまったように思った。
「宴の準備もできている。
おいしい果物をいただいたのだ、お前も食べて元気をお出し。
姉君からの贈り物だ。」
母がいる頃はあまり顔を出さなかった伯父は、兄独りで治められるか不安になって助けに来てくれたのだろう。
「ありがとうございます。」
「お礼は佐保山に言いなさい。」
久しぶりの実家は変わっていたけれど、果物の味は変わってはいない。
ここは佐保。
ここよりも素晴らしいところなど、私は知らない。
ここは、この世で一番美しい。
例え私の心が鈍っても、そうであると信じ続けたかった。
どこからか迷い込んだ蝶が、私の袖にとまった。
青い羽根が美しい。
「兄上、見てください、美しい蝶が。」
そう言うと蝶はひらひらとどこかに逃げてしまった。
「あら。」
まるで逃げていくような姿に首をかしげる。
2年前には兄の手に止まっていたはずなのに。
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