憑く
「これでいいのです。
ちょうど鏡池に入れるつもりでしたから。」
ふわふわと揺れる水面で、呆れた顔の狭穂姫が言った。
彼女の考えなど私には関係のないことで、私にとっていいことなど一つもありはしない。
帰りにお手水の水をもらって洗おうと心に決める。
ここまできたらもう罰あたりも何もないだろうから。
「受け取って。」
パシャパシャと軽い音がして俯けば、鏡池の中に亀がいた。
どこにいたのだろう。
今の今まで気付かなかった。
その亀の背中に、落とした手鏡が乗っている。
一体どういうことなのだろう。
この亀は、狭穂姫の言うことを聞いているというのか。
よく見ればニホンイシガメだ。
環境省レッドリストで準絶滅危惧(NT)に指定されている。
爬虫類に芸を教え込むことなんて、できるのだろうか。
変温動物である彼らは、長い時間人と触れ合うと弱ってしまうというのに。
「その亀はこの鏡池を代々守ってくれる鏡守です。
芸を教えたわけではありません。
全ては彼の意志。」
狭穂姫はくすくすと笑っている。
人が現実逃避をしている思考まで読まないでほしい。
私は震えながらも、今度は落とさないようにしっかりと手鏡を掴んだ。
ひやりとした感触が手に伝わってくる。
落とす前とはすっかり変わってしまった気がする。
「勘がいいですね。
その通り、上手くいきました。」
「気がしただけです、変わっていないでほしいんです、私は。」
思わず答えてしまう。
しかし次の瞬間、辺りがふっと暗くなる。
日が沈んだのだ。
鏡池はただの、藻の生い茂った池になってしまった。
空はまだ赤く、辺りもぼんやりと明るいが、それも名残りに過ぎない。
じきに辺りは足元も覚束無いほど暗くなるだろう。
こんなただでさえ薄気味悪い場所に、たった一人で暗くなるのを待つ理由はない。
私は慌ててかばんを掴むと鏡池から離れ、駆け出す。
石の階段で若干足を滑らせかけながら、何とか鳥居までたどり着いた。
「あっ忘れてた!」
思わず独り言ちてから慌てて少し引き返し、お手水の水を少しいただいて鏡を洗う。
気に入っていた鏡なのに、悲しい。
奈良町に文芸部で旅行に行ったときに買ったもので、桜の花をアクリルの中に入れて固めたコンパクトタイプだ。
四角い形と丸い形があって、丸を選んだのが悪かったのかもしれない。
外側をながしてから、開いて内側の鏡の面も洗う。
「洗わなくても、あの時間の水は、古来のままの清浄なものに戻るから心配いりませんよ。」
聞こえた声に、私は柄杓を落としてしまう。
コロンと、木が石に当たる音がして、それを追いかけるようにカランとアルミが石に当たる音がした。
「無事、貴女の手鏡に力を授けることができました。」
水を弾く鏡の中に私の顔が映っている。
確かに映っているのは私の顔だ。
穏やかで上品な微笑みを浮かべている。
手にした柄杓を落とした私が、こんな顔をしているはずがない。
「水鏡であれば私本来の姿を映すこともできたのですが、この鏡では貴女の姿を借りる事が精いっぱいのようです。」
私は静かに目を閉じた。
とてもじゃないが、見ていられるものではない。
鏡に映った自分の顔が、訳の分からないことを話している。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。
でも、今こうして見えるようになっただけの話で、実は私は貴女が入学して以来、ずっと共にいました。」
心臓の音が嫌に大きく聞こえる。
春先の日暮れとなれば、風は冷たい。
だが、その風によるものではない悪寒に、私は身震いする。
意を決して再び目を見開き、手の中の鏡を見下ろす。
だが薄暗くて良く見えなくなってきていて、鏡から狭穂姫の、実に申し訳なさそうな声だけが聞こえた。
「どうやら貴方に憑いてしまったみたいで。」
激しい眩暈に襲われた。
(私に、沙穂姫が、憑いた?)
「なんでっ!?」
「佐保の土地に、私の名前と同じ響きを持つ『
そして気付けば、貴女に吸い寄せられていたのです。」
「ちょっと待ってよ、おかしいでしょそれ!
なんで名前ごときで!」
「ごときとは。
名前は古来よりとても大切な物。
相手の名前を知れば、呪うことも祟ることもできるのですよ。」
薄暗がりの中、手の中から聞こえる不穏な言葉に、私は耐えきれなくなって、鏡を閉じた。
「・・・分かりました。
2時間、私に時間をください。」
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