水鏡


 少し開けた場所。

 小さな石の階段が、4、5段あったその先。

 木々の間から光が差し、そこは少し明るい。

 水が光を反射しているのが微かに見える。

 その水を取り囲む石の柵。

 こちらから一番良く見える石の一本に書かれた文字は、私の呼吸を奪うに充分の力を持っていた。





 ー狭穂姫伝承の鏡池ー





 背筋が寒くなる。

 それでも、近づかずにはいられない。

 何かに急かされるように、私は足をぎこちなく動かし、階段を上る。

 高鳴る鼓動に目が回りそうだ。

 そして見えてきた水面に、足を止め、溜息をつく。

 ようやく肩の力が抜けた。

 目の前の池はそれは夢で見た美しい鏡とは打って変わって、藻によって緑色に染まっていた。

 本当にただの、復元された池だ。

 淵は全て石とコンクリートで固められている。

 それは悲しいほどだった。


「でも、よかった。」


 思わず声に出してそう言った。

 目の前の池におかしなことは何もない。

 観光のために整備されたであろう池。

 手入れの行き届かない、藻の生い茂った、ただの池だ。


 日が暮れていく。

 赤い陽が木の間から洩れ、眩しく私を、池を照らした。

 赤い色が水鏡に映っていた緑を徐々に覆い、そして水はその夕日を徐々に反射していく。

 その様子は美しく、幻想的だ。

 私が見た夢の世界のように。

 その美しさがあまりに妖しく、嫌な汗が背中を伝う。

 私はその場から一歩たりとも動くことが出来なかった。


 そして、その瞬間は訪れる。

 ただの池であったそれは、一瞬、輝くような鏡の姿を取り戻した。





「懐かしい。」





 不意に聞こえた声に、自分の口に手をやる。

 自分と良く似た声がした。

 空耳だろうか。

 ドッペルガーに会うと死んでしまうと言われている。

 何度も言うが、私はそういう類は一切ダメである。


 見てはならない、目をそらせ。


 私の勘がそう訴えかけている。

 ところがどう頑張っても、鏡池から目が離せない。

 緑の藻があったことを忘れさせるくらい、見事な水鏡。

 夕陽を受けて輝く水鏡の中には、私の驚いた顔と、後ろ木々が映っている。

 いや、違う。


 私の顔が、笑っている。


 恐怖で身体が動かない私が、笑っているはずなんてない。

 どういうことだ、私は死んでしまうのか。

 いや、まだ死にたくない。

 やり残したことがありすぎて、成仏できないに違いない。

 無理だ無理。

 死ぬのも、お化けも、無理。

 怖いテレビを見て、トイレに1人で行けた試しがない。


「そう脅えないで。」


 池の中の私が言う。

 脅えないでいられるわけがない。

 池に映った自分の顔が話しているのだ。

 私は自分の口に触れる。

 でも鏡の中の私は困った顔をして笑っているだけで、手が口元に運ばれることはない。

 あまりの恐怖に、手足が震える。


「貴女は私を知っている。

 怖くなんてないでしょう。」


 それは私自身だからということだろうか。

 いや、違う。

 だからこそ怖いのだ。

 鏡に映っているはずの自分が、自分じゃないのだから。


「そう、貴女ではありません。

 でも、貴女は夢で私の記憶をずっと見ていた。」


 彼女は優しく笑い、手を振った。

 一瞬水面が揺れ、そしてそのさざ波がおさまった頃、水面に映るのは夢で見た通りの、美しい春の佐保と、そして。


「・・・狭穂姫?」


 声が格好悪いくらい震えていた。

 水鏡の中で、狭穂姫はにっこりと笑った。


「そうです。」


 信じられないし、信じたくもない。

 そういうわけのわからないものに関わりたくない。

 私は日常生活を穏やかに過ごしたいだけなのだ。


「それはごめんなさい。」


 しかも心の中を読まれているときている。

 私の平和な日々は、ここで終わりだというのか。


「実を言いますと、あなたが佐保高校に入学した時には終わっていたのです。」


「私は何も知らずに、平凡だと思って過ごしていたということ・・・?」


 頭の中がいっぱいになってしまって、考えるのと言葉が出るのが同時になってしまう。

 だがその方がいい。

 心を読まれるよりは、会話した方がまだ気持ちが楽だ。


「いいえ平凡ではなかったはず。」


 鏡池の中の私が、山桜の幹を撫でる。

 そうだ、私は入学した時からおかしかった。


「まさか、桜涙病は・・・」


「私のせいなの、ごめんなさい。」


 すまなそうに水鏡の中で謝るよりも先に、この恐怖体験から早く解放してほしい。


「もうすぐ日が沈みます。

 そうしたら話せなくなってしまう。」


 それは有難いことだ。

 今の出来事だってきっと、毎晩見るあの恐ろしい狭穂姫の物語と同じで、きっと夢に違いない。


「手鏡を持っていますね。」


「持っていません。」


「いいえ、嘘はつかないで。

 かばんの中、京都駅で買った若草色の縮緬の巾着袋の中です。

 さあ早く。」


 必至に首を振ったのに、なぜ巾着に入れていることまで、そしてその巾着の購入場所まで知っているのだろうか。

 だがここは言うことを聞いておく方が賢いかもしれない。

 逆らって祟られてはたまらない。

 震える手でかばんから巾着を取り出し、鏡を取り出そうとする。

 しかし手が震えてしまって、上手く開けられない。

 なんとか開けて、鏡を掴んだが。


「あ!」


 手を滑らせて落としてしまう。

 鏡は土の上に落ち、円形状という形が災いして転がってしまう。


「だめ!」


 例えるなら、マイケルが水槽の中で水を掻くような、そんな軽い音を立てて手鏡は水鏡の中に落ちた。

 何と恐ろしいことだろう。

 今の美しい水鏡も恐ろしいが、数分前のあの手入れされていない緑の藻に覆われた池に落ちたというのもまた、恐ろしい。


 私は思わず、頭を抱えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る