狭岡神社

 咲かない桜については結局、先日の野外調査フィールドワーク以降、大した進展はない。

 ソメイヨシノだけがただの一輪も咲かないなんて、考えてみたら生じる可能性はかなり低い。

 過去に事例がないのも当然で、またその原因の特定も困難を極める。

 橘先生はと言えば、新年度に向けて会議が続いているせいか、部活動にはあまり顔を出さない。

 その上もともとのんびりした性格なのか知らないが、この件について特に心配もしていない様子だ。

 歳を重ねると、ああもおおらかになるものだろうか。

 部活に顔を出したとしても、進捗を聞いて少し話したら帰って行ってしまうので、全く助けにならない。

 佐保高校の入学式まで1週間を切ったというのに、その解決に動いているのが私一人だなんて、あんまりだ。


 そんな行き詰まった部活帰り。

 私は西門を出てすぐ現れる鳥居の前で立ち止まっていた。

 「狭岡神社」と書かれた石の鳥居である。

 ここは杉本君が言っていた、沙穂姫の水鏡があるという神社。

 鳥居の奥には鎮守の森の中へひっそりと続く、厳かな階段があって、少し覗くと朱色の鳥居も見える。

 その先は木々に覆われていて、良く見えない。


 鳥居というのは誰もが知るように本当に枠だけのもので、そこに扉や壁は存在しない。

 なのに不思議と、まるで境界があるように感じてしまう。

 見えないものを感じるだなんて、考えるだけでもぞっとするけれど、でもそう感じさせるものがここにはある。


(いや、不法投棄防止に鳥居をたてるという話を聞いたことがある。

 つまり私が感じているこの境界は、訳のわからないものなんかではなくて、日本人の心に刷り込まれた神への畏敬だ。

 慣習により生じた敬意により、そう感じてしまうに違いない。)


 参道から風が吹いてくる。

 木々を揺らし、私の髪を靡かせ、奈良の街へと吹き降ろしていく。

 ひんやりとした、森の香りのする風だ。

 夢で感じた風に似ている気がして、私の心臓はどきりと音をたてた。

 何をどれほど言い聞かせていたとしても、やはり心は騙せない。

 ぽっかりとあいた鳥居の向こうには、私が知らない何かがある。

 先の見えない、恐ろしい何かが。


(現代に空いてしまった、落とし穴のよう・・・。)


 急に犬のほえ声がして、びくりと肩を震わせ、自然と声から逃げるように動く。


「こらっ!

 すみません。」

 

 振り返るとどうやら散歩中らしい中年女性と犬の姿が見える。

 小学1年生の夏休みに、飼い主から逃げだした犬に追いかけ回されたという忘れられない思い出があるため、脊髄反射レベルで苦手だ。


「い、いえ。」


 お愛想程度にそう言って首を振る。

 チワワやダックスフンドならまだしも、こんなゴールデンレトリーバーは恐ろしくてたまらない。

 ひんやりとした空気に身が包まれて、はっと辺りを見回せば、私は鳥居の中に足を踏み込んでいた。

 周囲の生活音が遮られ、木々のざわめきと何処からともなく聞こえる水音しかしない空間。

 頭上を見上げても木々の緑ばかりで、空は見えない。

 まるで体までも緑に染まってしまいそうだ。

 さっきまで向こう側から恐る恐る見上げていた石の鳥居。

 こちら側から見ると、登下校に日々歩いている山から下る細い道が住宅街へと続いている。

 中年女性と犬の姿は、もうない。

 いつも通りのその景色さえ、今は別世界のように見える。


 カサカサ、という葉の擦れる音がして咄嗟に振り返れば、羽音がして黒い影が飛んで行った。


(なんだ、カラスか。)


 ほうっと肩の力を抜く。

 ふと傍にあるお手水が目に入る。

 水で穢れを洗い流すためのものだと、昔初詣に行ったときに祖母に教えられた。


(穢れ、だなんて、そんなの。)


 少し迷ったが、諦めて柄杓で手と口をすすぐ。

 慣習とは恐ろしいもので、しないと気持ちが悪くていけない。


 上に何があるのか見えないが、とりあえず木立の中の階段を登り始める。

 樹の匂いと、土の匂いが立ち込めている。

 山登りをしたときのあの匂いだ。

 こんな住宅街の一角なのに、まるで山奥のような印象を受ける。

 それもそのはず。

 ここは、生きる山。

 佐保山なのだ。

 命の漲る、何処よりも美しい、佐保。

 それも春の佐保。

 あれほど帰ることを望んだ場所なのだ。

 自然と頬が緩む。


(ここはまるで変わらない。

 のよう。)


 そう考えて、はっと足を止める。

 実に自然に考えたことであった。

 自然と、自分の思考に本来ありえない思考がが入り込んでいる。


って、どうして、そんな、夢の話なのに、まるで自分のことみたいに・・・私・・・)


 爪先を見下ろしたまま、私は動けない。

 無意識の事だからこそ、あまりに恐ろしい。

 右から歩いてきた蟻が、私の足にぶつかって、避けるように上へ進んだ。


(やめだやめ、帰ろう。)


 無理に視線を爪先を引き剥がし、振り返ろうとして、私は再び動けなくなった。

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