沙本毘古王の反逆 2
春の穏やかな日差しが、書棚によって遮られてできた影の中で、杉本君は俯き加減で話し続ける。
「沙本毘古王は稲を積み上げて城壁を作って迎え討ちました。
これを
これは弓も歯が立たないし、崩すこともできませんでした。
その頃、皇后さまは裏門から逃げ出して、兄の
この時、すでに皇后は身ごもられていました。
天皇はそのこともあるし、3年間共に過ごしたこともあって、悲しみに耐えられませんでした。
だからなかなか攻められなかったんです。
そうこうしている間に、御子が生まれてしまいます。
皇后は稲城の外に使者を遣わして、天皇に言いました。
『もしこの御子を天皇の御子と思召すならば、お引き取りください。』
天皇は答えます。
『兄を恨んでいるけれど、やはり皇后のことは愛していて耐えられない。』
やはり天皇には、皇后を取り戻したい思いがあったんでしょうね。
そこで戦士の中から、力の強くて、速さのある人を集めて命令されました。
『その御子を引き取るときに、皇后も掴んで引き出し申し上げるがよい。』
一方、皇后も天皇の思いは御存じで、御自身の髪をそって鬘を作ってそれで頭を覆い、飾り玉の紐を腐らせて手に巻き、着物は酒で腐らせ、それらを身につけ、御子を抱いて城の外にお出になった。
そこで戦士たちが御子を受け取るなりすぐさま、皇后様も捕えようとしたのだけれど、髪を掴んでも落ちるし、玉飾りもすぐに切れるし、着物も破けてしまって、どうしても捕えることができなかったのです。
戦士たちは帰って天皇にそのことを報告しました。
天皇は非常に残念に思われて、玉飾りを作った人達を憎み、その土地を取り上げられてしまったのです。
だから、諺で『地を得ぬ球作り』といいます。
その後も天皇は皇后におっしゃいます。
『全て子どもの名前は必ず母が名づけるものだ。
この子の名前は何とすればいい。』
すると皇后は
『稲城を焼いている火の中でお生まれになりました。
だからお名前は
天皇はまた皇后におっしゃいます。
『どのようにして育てればいいのか。』
すると皇后は
『乳母をつけ、湯に入れる役を決め、お育てするのが良いでしょう。』
天皇は言われた通りに育てることにしました。
それからまた皇后におっしゃいました。
『そなたが結び固めたしみづの子紐は誰が解くのだろうか?』」
杉本君はそこで一度話を止めた。
「これは風習ですね。
夫婦が互いに紐を閉め、次に会うまでは他人に解かせないとちぎる風習があったそうです。
最後は天皇が1人の男として、皇后の女心に問いかけたわけです。
でも、皇后さまは答えない。
非情なまでに、冷たい。」
杉本君の目はじっと私の目を覗き込んでいる。
「・・・そう、なんだ。」
何とかそう答えると、彼はまた本に目を戻した。
「『丹波に
忠誠な、清い女子ですから、お妃にされるのが良いでしょう。』
天皇はついに諦め、沙本毘古王を殺され、沙本毘売もそれに殉じられた。
・・・以上です。」
呆気ない幕切れ。
私を見つめてくる杉本君に、何か言わねばと口を開く。
「・・・死んでしまったんだ、2人とも。」
かさついた声しか出なかった。
「はい。
反逆者ですから。
古事記は歴史書です。
そして天皇の力を確固たるものと知らしめるための、一種の道具。
反逆者は倒されねばならないのです。
例えそれが、愛した妻であっても・・・最愛の息子の母であっても。」
俯く彼の表情はよく見えない。
でも声にはどこか、棘があるように感じた。
「
「沙本毘古王の反逆はここまでです。
あとはまた息子の話とか、いろんな天皇の話が続いていきますよ。」
ぱらぱらと、細い指がページを捲る。
「そう。
「父の愛情を受けて育っていきますよ。
しかし大人になっても言葉を話すことはできなかった。」
「えっ。
もしかして、
無意識にそう言ってから、何をそんな非科学的なことと頭を振る。
夢のせいなのか、咲かない桜のせいなのか、随分と頭の中が現実から離れている気がする。
しっかりせねばと自分に言い聞かせるが、杉本君は私の反省事項など全く気にしていないようだ。
「いいえ、出雲の大神、つまり大国主神の祟りだったそうで、ちゃんとお祭りするとお話しできるようになったそうですよ。」
「なんだ、よかった。」
心底ほっとする自分に、また気分が少し落ち込んだ。
だめだ、夢に影響されすぎている。
「そうだ、実は西門を出たすぐのところに神社があるの、知っていますか?」
あっち、杉本君が窓の向こうを指さした。
こんもりと鎮守の森が見える。
通学に前を通るから、知らない生徒はいないだろう。
「うん。」
「行ったことは?」
「ない。」
「あの神社には沙本毘売の鏡池がありますよ。
まぁ、復元だとは思いますけどね。」
ぞわりと、また背筋が寒くなった。
どうしてだろう、そこにいけば何かが分かるかもしれない。
その予感がひどく恐ろしい。
非科学的なことを、といつも笑う側ではあるが、私はホラーは全く駄目だ。
そこで夢に関連する何かが起きたら、私は腰を抜かしてしまうかもしれない。
「そうだよね・・・普通そんな昔の池なんて、残ってないよね。」
杉本君は、いつも通りの爽やかな笑顔を浮かべている。
同じ桜涙病を持ち、なぜか私が夢で見ていた沙穂姫の悲劇を教え、その水鏡を見に行くように進める彼。
彼は、私の知らない何かを知っている。
それは古事記の内容とか、そんな事ではなくて、私が恐れているこの日常には無い何かだと、私の勘が訴えていた。
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