ナラノヤエザクラ


「ソメイヨシノはクローン。

 だから同じ時期に咲くし、同じ時期に散ってしまう。

 でも八重桜は違う。」


 あの、少し色の濃い色をした小ぶりの花を思い出す。

 枝をよく見てみると、昨日見たよりも少し蕾が成長している。


(ソメイヨシノと違ってやはりがあるらしい。)


 そう思ってから、すっかり鈴の唱えた説に感化されてしまったと眉を顰める。


「やはりソメイヨシノの集団ボイコット説が濃厚か?」


「なるほど。

 そういう説もありですね。」


「いや冗談だから。」


 呟きながらナラノヤエザクラから目を離す。


 不意に入った藍色に、彼は図書館に用事があったのかと思う。


「クジラさん文庫だ。」


 少し驚いた顔をしてから、彼は気づいたようだ。


「これですか?

 ネーミングセンス抜群ですね。」


「文芸部ではすっかり定着しているよ。

 何を読んでいるの?」


「古事記です。

 最近ちょっと気になっていて。」


 夢の話が正に古事記に登場する話なのだと言えば、彼はもしかしたらテンションが上がるかもしれないと思った。

 もちろん言うつもりはないけれど。


「それって、奈良時代に書かれたんだっけ?」


「そうですよ。

 日本最古の歴史書。

 天武天皇が稗田阿礼に歴史を全て暗記するよう命令されたのですが、完成を待たずに崩御されました。

 そこで太安万侶が文字に書き写し、712年に元明天皇に献上されたそうです。」


「その中に桜の話ってないの?

 咲いていないとか、そう言うの。」


「咲いていないという話は在りませんが、神阿多都比売かむあたつひめ別名木花之佐久夜毘売コノハナサクヤヒメという姫の名前が、桜という名前の語源になったとは言われています。

 まあ、桜の名前の由来には複数の説がありますけど。」


「じゃあこの辺りの土地、佐保の伝説とかは?」


「そうですね。」


 彼はクジラ色の表紙を開いた。

 春の日差しが、布地に反射し、その糸の線を白く染める。


「この佐保の土地に関した話題でしたら、やはりこれでしょう。」


 ページを見せられても何が書いているのかは良く分からない。

 ほっそりとした指が、ページの一点を指した。


沙本毘古王さほひこのみこの反逆。」


 読み上げられた言葉に、不思議と背筋に悪寒が走った。

 これが古事記に乗っていることは情報としては知っていた。

 知っていたが、実際にこうして目の前に突き出されると、得も言われぬ悪寒が走る。


「ほら、近鉄橿原線の尼ヶ辻駅の近くにある、大きな古墳に眠っている垂仁天皇のお妃さまと、そのお兄さんがおこした反乱です。」


「ずいぶん・・・物騒だね。」


 なんとかそう一言返す。


「奈良の都の東にあるここ佐保山は、昔から春が訪れる山として愛されていました。

 竜田川の竜田姫は秋の姫、佐保山の佐保姫は春の姫、というように。

 ですがそんな美しい土地にも、血を血で洗うような戦が昔はあったんですよ。」


 彼の話を聞くと、目の前に浮かびあがる。

 夢で見た、炎の渦。

 燃えていく城。


「この物語は、古事記の中でも最も文学性が高いといわれている話なんですよ。

 僕はわりと好きです。」


 彼の言葉が、どこか遠くで聞こえた。


「それはそうと先輩、良いんですか?」


「何が?」


「時間。」


 言われて腕時計を見る。

 2時を回っていた。

 特に約束などはないけれど、手には変な汗をかいていて気持ち悪いし、何より目の前の「沙本毘古王さほひこのみこの反逆」から離れたいと心の底から思っていた。


「良くない!ごめん、行くね。」


 私は生物室に向かって走る。

 自分が最近見る夢が気持ち悪くて、怖くて、これ以上先を知りたくないと思ってしまう。

 夢は夢。

 きっと何か見る原因があったはずだ。

 知らないと思っていた話だけれど、テレビでやっていたのを見たとか。

 昔絵本で読んだとか。

 きっと何かがあったはずだ。


「そう、思い出せないだけなんだ、きっと。」


 生物室から、水の音がする。

 あぶくの音、マイケルが水を掻く音。

 私は逃げるように生物室に飛び込んだ。

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