特別な木
「先輩もお昼でしたか。」
後ろからかけられた声に振り返れば、杉本君が軽く手を挙げていた。
「杉本君も。」
「はい。
日替わりランチおいしかったです。
先輩は?」
「きつねうどん。」
「シンプルですね。
桜については何か分かりましたか。」
食べたものの話はただのお愛想に過ぎないことは分かっていたが、切り替えが若干速すぎるように感じた。
彼はどうも今年の桜が気になるらしい。
「それが昨日
ソメイヨシノだけが咲いていないことが分かったの。」
「それはそれは。」
彼は穏やかに微笑んだ。
「良かったですね。」
「良かった、かなぁ。
でもだからと言って、ソメイヨシノだけが何で咲かないのかなんて、見当もつかないんだけど。」
その言葉に一つ頷き、私達は並んで歩きだした。
「そういえば友達が、桜が『咲かない説』と『咲けない説』を唱えていたよ。」
「どういうことですか?」
杉本君が食いついてきた。
彼の興味のあることはよくわからない。
「咲けない説――桜は咲きたい。環境のせいで咲けないだけ。
咲かない説――桜は咲きたくない。今年は咲かないと心に決めている。」
へぇ、と感心したように腕を組む。
「面白いことをおっしゃる方ですね。」
「でしょう。
でも残念ながらそれは解決の糸口にはならないんだよね。」
杉本君は不思議そうに私を見た。
「どうして?」
「どうしてって、だってそうじゃない。
表現の問題だけだもの。」
「そうでしょうか。
昔の人はそうも思っていないみたいですよ。
春風は花のあたりをよぎて吹け 心づからやうつろふと見む
って言うくらいですし。」
昨日に続き、この子は今日もまた古典の話を引っ張り出してきた。
「・・・解説よろしく。」
「喜んで。
作者は
春風よ桜の花を避けて吹け、自らの意思で散るのか知りたい といったところです。
つまり、
「それは平安時代とか、昔の話でしょう?
そういう技法をとっていただけじゃないの。」
「ですがご存知ですか。
桜は昔から特別な樹だったんですよ。
その年の稲の実りを桜で占ったそうです。
だから聖樹として信仰されていて、一時気は民間信仰だった桜信仰が、仏教にとりいれられていたかのようにさえ思える時代もある。
今でも学校に桜を植えるのは、魔よけとしての文化が意味を忘れて形だけ残っているためだという説もあります。」
「知らなかった。」
随分と博学なのだなと舌を巻く。
「まぁ、日清・日露戦争の際に、桜のぱっと咲いてぱっと散る潔さが軍人のイメージと重ね合わされ、その軍人精神を教えるために学校に植樹されたという説の方が濃厚なんじゃないかと思いますけれど。」
「そっちも知らなかったけど、聞きたくなかったな。」
「とにもかくにも、桜は人にとって特別な木なんですよ。
それだけの思いを集めるのには、理由があるかもしれないじゃないですか。」
気づけば私達は図書館のそばにある桜の樹の下にきていた。
これはソメイヨシノではない。
ナラノヤエザクラ、Prunus verecunda 'Antiqua'だ。
「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな
と詠まれた八重桜の蕾は、ほのかに膨らんでいる。」
杉本君は零れるように呟いた。
彼の身体の中にはたくさんの古典文学が満ちていて、ときどきコップを揺らすと水がこぼれ出るようにして、滴り落ちる。
澄んで綺麗な清水のように感じられるのは、彼の人柄なのだろうか。
それとも古典文学自体がそう言うものなのだろうか。
「古の奈良の都の八重桜、宮中じゅうに香るほどよ。
奈良の都の八重桜は有名でした。
平城京にあったものですが、平安京に都が移ってからも愛され、一条院の時代に奈良から献上されたそうです。
伊勢大輔がこれを詠みました。」
黙り込んでいる私が意味が分かっていないのだろうと思ったのか、説明してくれた。
しかしこの歌くらいは知っている。
これでも奈良県民の端くれ。
奈良県花、奈良市章・市花にもなっているもので、だからこそこの高校にも寄贈されている。
「知っているよ。
百人一首でしょ?
香りのない桜の香りで満ちるっていう発想と、七、八、九と数字が詠み込まれているのがポイント。」
「その通りです。」
嬉しそうに笑う。
春の日差しが暖かく降り注いでいる。
柔らかい春の中央であるこの佐保なのに、ソメイヨシノだけが欠けていた。
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