4月5日

「決断」

 1年だ。

 時折佐保山からやって来る鳥が不安げに私に囀る。

 足につけられた手紙は、計画の実行をほのめかしていた。

 流石にそろそろ痺れを切らすころだろう。

 私が兄を裏切れば、あの兄は山奥でたった独り孤独に苛まれ、更に苦しむに違いない。

 母が守った佐保を独りで背負うには、兄はあまりに弱いのだ。

 風の噂で最近田畑の実りが悪くなってきたと聞く。

 民は兄の力が弱いからだと、兄を責めていることだろう。

 そして嫁いだ私を、佐保を捨てた裏切り者だと恨んでいることだろう。

 民の兄への忠誠が揺らぐことが、一番恐ろしいことだ。


 彼は今、たった独りだ。

 弱いからこそ、武力に頼ることはないと思っていたが、弱いからこそ、己が心を守るために刀を手にしてしまうのかもしれない。

 兄は幼いころから甘えん坊で、母の後ろを追いかけていた。

 そしてその兄を私が追いかけていた。

 共に野を駆け、山を登り、草木や動物たちと戯れた。

 二人で肩を寄せ合い、この佐保のために生きようと誓った。

 その誓いを破ったのは、私だ。


 兄が、泣いている。

 兄の心が泣いていると、鳥が囀る。

 助けてくれと、悲し気に。


「貴方も山も、兄を守りたいのね。

 でも兄はそれが分からない。

 心を閉ざしてしまっているから。」


 戦いの準備は進んでいると、鳥は囀る。

 私が天皇スメラミコトを亡き者にした時に、攻め込むつもりでいるのだ。

 佐保の民も、兵のために集められているらしい。


(もはやこれまでか。)


 深まる秋。

 私は今年、佐保の里に帰っていない。

 恐ろしさに足がすくんで、帰れないのだ。


 そんな弱虫であるにも関わらず、事は進み始めてしまったのだ。

 引き返すことなど最早できない。

 私が決行しなくとも、きっと兄は都に攻め入るつもりだろう。

 そうすれば血が流れる。

 天皇の民と、佐保の民の血が、流れる。


 逆族となることを心に決めた兄はもう、天皇の忠臣に戻ることはできない。

 否、彼の心は初めから、忠臣などではなかった。

 遠からずこの日は来たのだ。


「母上ならば、どうしたかしら。」


 いつの間にか山になってしまった母。

 どうして兄を独り残して、山になってしまわれたのか。


 ー季節が移ろいゆくように、世も変わってゆく。

 固執は身を滅ぼす。ー


 母の言葉が蘇る。


 兄は佐保の平和に固執した。

 いつまでも、今のままの佐保であろうと願って、逆族となった。


 天皇は私を見つけてくださった日におっしゃった通り、私を心から愛してくださった。

 冷たい、山から離れたこの都で、私は小さな佐保の庭を与えられ、愛しい姫よと、大切に慈しんでくださった。

 このまま平和に暮らすことを、私は望んでいる。

 何よりも欲してしまうこの平和への固執が、身を滅ぼすというのなら、天皇スメラミコトの御代を滅ぼすというのなら。





「母上、私に力をください。

 未熟者で、弱き佐保の姫に、どうか力と、勇気を。」

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