「珠」
佐保を離れてから早1年。
都は実に冷たい場所だった。
山と共に生きる佐保とは、違う。
それは分かっていた。
その上、敵陣に行くのだから温かい対応などあるはずがないことだって当然のことだと。
だが、現実は想像以上だ。
例え春が来たとは言え、心は沈んだままである。
野山を駆け回ってばかりいた私にはここはひどく窮屈だし、最近領土となったばかりの佐保の姫でありながら、天皇の妻である私に向けられる疑惑の目もあまりに痛い。
気が滅入りそうだが、ここで負けるわけにはいかないと、毎日自分に言い聞かせている。
言い聞かせながら、こんな日が一生続くなんてと思うと、それこそ気が滅入る。
(帰りたい・・・。)
寒く固く閉じこもる冬があけたところで、さして気持ちは明るくはならない。
花が咲き、蝶が舞うのは同じだが、都の春には勢いがない。
佐保のような、溢れんばかりの命の輝きはどこにも見られないのだ。
(いや、
ここしばらくの間姿を見ない夫を思う。
いくら妻で籠の鳥とはいえやはり敵であっただけに、彼がどこで何をしているのか一切教えてはもらえない。
このしばらく来訪がないことだって、「しばらく来られなくなる」と一言聞いただけだ。
危険な旅なのかも、いつまた帰ってくるのかも、何一つ聞かされない。
嘘か真か分からぬような風の噂で、どこの土地を抑えただの、どこの領主と争っているだの聞こえてくるに過ぎず、それに心を惑わされるのも時間の無駄というものだ。
ただ一つ分かっているのは、彼はきっとまた、私のようにどこか遠くの山や川に住む人の行く末を変えているのだということ。
そしていつの日か――私のような新たな妻を連れて帰るかもしれないということ。
その事実に気付いた日から、「しばらく来られなくなる」を聞く私の心はどこか重い。
(馬鹿らしい。)
母であればきっとこんな私を「心が弱い」と言うだろう。
そうだ、私は弱い。
佐保から引きはがされてしまった私は猶の事弱い。
その一方でこの国を一つにまとめ上げ、戦のない世を気付き上げようとしている夫は、誰よりも眩しく、誰よりも美しく、誰よりも強い。
それは私の新しい佐保と呼んでも差し支えないほど、いつの間にか大きな存在になっていた。
だが彼は皆のものであり寂しさや孤独からは程遠い、天下人。
輝きの絶頂にいる
あれこれ思いを馳せていたところ、ふと家の前が騒がしくなり、恐る恐る外に出てみる。
何やら土や草木を運んでいるらしい。
「あの、何を?」
一人捕まえて尋ねてみる。
ここは私の家として与えられており、彼らが草木を運んでいる場所はその庭なのだから、尋ねたところで叱られることはあるまい。
「
その人はそれだけ答えると、作業に戻ってしまった。
(
ここにはいない人が、なぜそんな命令をと思いながら草木に再び目を移し、そして驚く。
「佐保のものだわ!」
「よくわかったな、流石は佐保の姫君だ。」
からからという笑い声が門の方でして、見れば噂の人が歩いてくるところだった。
作業中の者たちも皆ひれ伏そうとするので、
「続けろ。」
「は!」
彼の短い一言で作業は続行される。
それこそ王である彼には当たり前のことなのだが、見慣れない様子に一瞬戸惑う。
私は公の場に連れていかれたことはあまりないし、彼の天皇としての姿を見ることは稀なのだ。
「随分と佐保が忘れられない様子だからな、帰りに寄ってもらってきた。
もちろん、お前の母上に許可を取ったうえでな。」
意気揚々と語る言葉に驚く。
「母上に!?」
故郷への懐かしさが一気にこみ上げ、思わず駆け寄った。
「伝言も承った。」
見上げる瞳は慈悲深く、私を見下ろしている。
天皇として命令する時とはまるで違う表情だ。
それだけで不思議と心が軽くなる。
本当に彼は不思議だ。
天皇となる人は、人の心を操る力でも備えているのだろうかと思うほど。
「母上は、なんと?」
「年に一度、秋に戻ることを許す、と。」
思わず目を見開く。
「それは真ですか。」
飛び上がって喜びたいのを必死に堪える。
それがわかるのだろう、
「ああ。
もともと年に一度は里へと思っていたのだがな、母上の許可が下りなかった。」
その言葉に私の喜びが消える。
「・・・母上が許されなかったのですか。」
確かに、伝言でも「許す」と言っていた。
「お前の母上は、実に強く賢い人だ。」
だが天皇は何かを悟っているらしい。
もしかしたら母から何か予言を受けたのかもしれない。
佐保の方を見る瞳は何かをじっと思っている。
佐保は最早彼のものであるのに、その瞳は異郷を思うそれだった。
分からないことだらけだが、天皇はそれ以上このことについて話す気はないらしい。
母が許さないのには、それなりの理由があるはずだ。
そして母が許したのにもまた、理由があるはずなのだ。
(どういうことなのだろう・・・。)
心がざわめく。
あの佐保にある水鏡をのぞけばきっと、細かなさざ波が揺れたことだろう。
「そうだ、この度はもう一つ、お前にと思ってな。」
大きな手が私の手を取り、その腕に温かな何かを通した。
俯いて確認すると美しい珠を通した腕輪が三重に巻かれている。
温かいのは彼の体温が腕輪に移ったからだろう。
翡翠色を基調とし、赤や黄色、桃色など、様々な色の珠を通してある。
「綺麗・・・。」
思わず呟く。
光に透かすと淡く輝くそれは、まるで山をとじこめたようだ。
柔らかな草や花の香り、水のせせらぎ、木の温もり、小鳥の囀ずり、虫の悪戯・・・正に懐かしい山の結晶だ。
「山奥で採れた翡翠を繋げたものだ。
これならばお前にも馴染むだろう。」
彼の読みは正しい。
昔から自分のものであったようにそれは馴染んでいる。
昨年贈られた大陸のものだと言うガラスの首輪の方が高価なものなのであろうが、私にはこちらの方が断然好きだ。
「わざわざ、私に・・・?」
「ああ。」
大きな手が私の手をそっと包む。
節だった男の手は、この世を治める。
争いの末に弱者を呑み込み、平和をもたらす。
「お前の心を守るよう、
その言葉にはっとして彼の顔を見上げた。
人を惹きつけて止まない穏やかな瞳が、私を見つめている。
「もうすぐ春の佐保がこの庭に訪れる。
ようやく、お前の心も晴れよう。」
その言葉に、彼には全てがお見通しなのだと気づいた。
皆の天皇であり、この国を統べる人でありながら、この小さな私の、敵であった私の心まで見透かして、晴らしてくれる。
「・・・ありがとうございます・・・。」
私は腕輪を抱きしめた。
彼はきっと、この世に泰平をもたらすだろう。
彼はそのためにこの世に生まれたに、違いない。
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