強引な背中

 肩を叩かれて目を覚ます。

 辺りを見回して、図書館で本を読みながら寝てしまっていたことに気がついた。


「気持ちよかった?」


 笑うのは司書の先生。


「すみません。」


 慌てて頭を下げる。

 図書館は昼寝場所ではない。


「閉めるから。」


 その言葉に、机に広げた本を片づける。

 部長は午後からESS部の活動があるからということで、生物部は一度お開きになり、私は図書館で受験勉強に勤しむことにした。

 図書館は佐保高校内でも数少ない冷暖完備の快適な場所。

 勉強に最適なのだが、如何せん誘惑が多い。

 本に、睡魔に、本に、睡魔に・・・。

 結局、化学問題集が一問も進まなかったことは、是非エイプリルフールの嘘だということにしてもらいたい。


(その上やっぱり例の夢か。)


 飛び飛びではあるが話は確かに進んでいる。

 これは夢に頼っていれば本当に長編が書けるかもしれないが、やはり背筋が寒くなる。


「もういい?

 閉めるよ。」


 向こうのテーブルでも同じように声をかけられている生徒がいた。

 何度か見かけたことがある。

 というのも、彼は図書委員なのだ。

 本の貸し出しを何度かしてもらったことがある。


「今日は何?」


「古事記です。」


 そのタイトルに思わずぴくりと反応してしまう。


「その全集好きだよね。」


「持ち運びにも比較的便利ですし、程よい手助けが気に入っていて。」


 司書の先生と話す彼の手には、深い藍色の本が抱えられている。

 あれは文芸部でもよく話題に上がっていて、部内では「くじらさん文庫」と呼ばれている。

 文系の部員は時折使っているようだ。

 なにせ、全文の現代語訳は乗っていなくて、読みにくいところに注釈があるだけらしく、勉強中の身には有難いんだとかなんとか。

 つまり、彼と同じようなことを言っていた。


「借りるの?」


「はい、自分でやります。」


 のんびり片づけていると、彼は私の前を通って行った。

 通りがけに笑顔で会釈されたが、「古事記」に気をとられていたせいで、返し損ねる。

 爽やかな青年だ。

 彼のような生徒が文芸部に入ってくれたら、新入部員も増える気がする。










 コポコポコポ

 水槽に入っているポンプの音。

 チャプンチャプン

 すっぽんのマイケルがえさをねだる音。

 カツンカツン

 鳥かごの中の山鳩がえさをつつく音。


 結局夕方に戻ってきた生物室。

 ここはいつも、生きるための音に満ちている。

 それは水の匂いと同じで、2年前に私がここに足を踏み込んでからちっとも変ってはいない。

 金魚の水槽の前から、マイケルの水槽の前に移動して、その隣に置かれた干しエビをやる。

 勢いよくエビにくらいつくマイケルに、すっぽんのさがを感じた。


「そろそろその水槽小さくなってきた?」


 尋ねても、チャプンチャプンと水を揺らして餌をねだるばかり。

 いつもだったら兄貴先生がマイケルの真似して返事をしてくれていたのに、今はもうそのふざけた声は聞こえてはこない。


「つれない奴だね。」


 こつんとガラスをたたいても、マイケルはちっとも驚かない。

 相変わらず餌をくれとちゃぷちゃぷやっている。

 私は小さく息を吐き出した。

 初めて会った時、兄貴先生を知っている気がしたが、それはいわゆる他人の空似と言うもので、生物室に入ってから聞かされた「秋篠あきしの 和穂かずほ」と言う名前は一度も聞いたことはなかった。


 ガラガラ、ガラッ、ガッ


 いかにも開けにくそうな音が響く。

 無理に扉を開けようとしているのは、生物室にあまり来たことがない人が訪れた証拠。

 立てつけの悪い生物室の扉は半分程度しか開かない。

 それ以上はどうやっても無理だ。

 あきらめてその隙間を通るしかない。

 よく訪れる人間ならばそれを知っているから無理に開けようとはしないのだ。

 振り返れば案の定、その半分だけ開いた部分に見慣れない白髪の男性が立っている。


「おや、君は生物部員、かな。」


 鶯色のスーツにこれまた鶯色の来客用のスリッパを履いている。

 胸のあたりにある右手にはかぶっていたであろう山高帽を持っていた。


「そうですけれど。

 えっと・・・地域の方ですか?」


 手に持っていた干しエビをマイケルの上に撒いて軽く手を払い、男性に近づく。

 私の発言に、彼は目尻に皺を作って微笑んだ。


「残念。

 私は今年佐保高校に転任してきた、生物の教師です。

 生物部の顧問になりました。」


 くるりと包み込んでしまうような包容力のある声に、何故か胸がどきりとする。

 思わず目をそらし、マイケルを見習って首をすくめた。


「すみません。

 あまりに紳士的な方なので、学校の先生に見えなくて。」


 先生は小さく2度頷いて教室に入ってきた。


「いや、よく間違われるから、気にしとらんよ。

 褒め言葉と受け取っておこう。」


 茶目っけ満載でそういう先生に、私もつられて笑顔になった。


「ところでその扉は・・・どうしたら、開くのかね?」


 先生が振り返ったのは、半分だけ開いた扉。


「そこまでしか開きません。

 修理は金欠のためできないそうです。」


「成る程。」


 先生は諦めて私の方を向いた。

 これでも進学校である佐保高校は紙代とチョーク代、それからコピー機の維持費がバカにならないらしい。

 何かを得るためには犠牲はつきものだ。


「君が染井さん、かな。」


「はい。

 今年3年生になります。

 染井そめい 沙穂さほです。

 よろしくお願いします。」


「うん、よろしく。

 私はたちばな 活彦かつひこです。

 秋篠先生からコウモリのグループ研究の話は聞いていてね。

 頑張っているそうだね。」


「ええ、まぁ・・・。」


「次の合同研究発表会で発表できるよう、私もできる限りお手伝いしよう。」


「よろしくお願いします。」


 頼もしい言葉に、私は小さく頭を下げた。


 ーま、適当に手伝ってあげるからさ。ー


 そう言って笑った兄貴先生とは大違いだ。

 真面目そうな橘先生なら、今までのような苦労などあるまい。

 気づけばそう言い聞かせていた自分がいて、私はもう一度心の中で呟いた。

 兄貴先生なんて嫌いだ、と。


「ちょっといいですか、橘先生。」


 不意にかけられた第三者の声に、教室の入り口を見れば、教頭先生が顔をのぞかせていた。


「お、染井も来ているやんか。

 ちょうどいい、お前もちょっと来い。」


 私は橘先生と顔を見合わせる。

 自分で言うのもなんだが、教頭先生が弱小生物部に顔を出すことなんてあったためしがない。

 ぱたん、ぱたん、と音をたてて廊下を歩いていく強引な背中に、私達も従う他なかった。

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