佐保姫2
開いた口が塞がらない。
目の前に現れた、一人の女性は、とてもではないが現代の人とは思えない姿をしていた。
彼女は丸顔の穏やかでおおらかな顔立ちをし、頬を明るく上気させ、穏やかに微笑んでいる。
長い黒髪は、赤い花飾りのついた紐で頭の上で軽く結われた後、艶やかに輝きながら後ろに流れている。
白みがかった翠の着物に、
薄手のストールのようなものを肩から掛けているが、これがとても薄くて、光に反射してようやく見えるといったところだ。
桜の花が織り込まれているのか、風でふわふわと揺れると花びらが待っているように見える。
浮世離れした彼女の姿ではあるが、どこか見覚えがあって、私はあっと口に手を当てた。
「
思わず叫んだ名前は日本画家の名だ。
彼が描いた「佐保姫」という絵を以前美術館に行ったときに見たことがあるが、正にその姿である。
「おや、懐かしい名前だこと。」
佐保姫は朗らかに笑った。
「そんな人間がいましたね。
私の姿を見て、描いた人。
さて、私を呼んだのは、貴女ですね。」
そう問いかけられて、私は戸惑いながら一つ頷く。
「私と、それから」
「狭穂です、佐保姫。
こんにちは。」
手鏡の中から狭穂姫が声をかけた。
「これはお久しぶりです、狭穂姫。
暫く姿が見えないと思ったら、まぁ随分と狭いところに、変わった姿で映っていること。」
佐保姫が少し屈んで鏡を覗き込んだ。
「私はこの少女、私と同じ響きを名に持つ
残念ながら、お話しする方法はこの他にありません。」
「まぁ、そんなことが。
貴女もサホとおっしゃるのね。」
鏡を見ていた佐保姫が私を見つめて問いかける。
「はい。
その名前を聞いた佐保姫は何か思い当たることがあるのか、一つ頷いた。
「なるほど。」
「あの、何に納得されているのでしょうか。」
恐る恐る問いかけると、佐保姫はにっこりと笑った。
「その前に、貴女がここに来られた理由をお聞きしてもいいですか。」
私は一つ頷いて、小さな声で尋ねた。
「私、佐保高校の生徒なんです。
佐保一帯のソメイヨシノが咲かない理由について、何かご存知ではないかと伺いたくて来ました。」
佐保姫は深く一つ頷いた。
「今年のソメイヨシノには私も手を焼いているんです。」
そして溜息をつきながら彼女は詳しく話し始めた。
「春を呼び、この国中に春を満たすのが私の仕事。
春風を吹かせ、芽を起こし、花を咲かせ、虫や獣を起こします。
例年通り、私はソメイヨシノにも声を掛けました。
ところがソメイヨシノは蕾を膨らませようとはしません。
私自身、彼らが作られたときからの付き合いですが、こんなことは一度もありませんでした。
従順な彼らは人を喜ばせるためと、命が尽きるまで、実を結ぶことはないのに花を咲かせます。
いつもであれば、少し春風で揺らせばすぐに花を咲かせる用意に取り掛かるのです。
ところが今年は全く。」
佐保姫は悲し気に首を振った。
「ですが、必ず咲く、とは言っていました。
理由は教えてくれません。
ただ、その姿がひどく頑なで、あの時を思い出させました。」
そして頬に手を当て、視線を落とす。
「今まで幾度となくあった、出兵の時。」
戦争を知らない日本に生きる私にとって、彼女の言葉は予想外だった。
それを私の表情から悟ったのか、佐保姫は口を開いた。
「自然は
草も木も獣も、何かに固執することなく、あるがままに生き、時が来れば死ぬ。
ですが、人間は違いますね。
様々な人の為、目的の為に生き、そして死ぬ。」
佐保姫は鏡の中に一つ頷いて見せた。
狭穂姫の人生を知ってのことだろう。
「人の手によって生み出され、人の為に生きるソメイヨシノは、自然の理から外れ、人間に感化されてしまったのかもしれません。」
桜は咲けないのではなく、自らの意思で咲かない。
それが事実というならば、私が桜を咲かせるために今まで本やインターネットで調べてきたことは何だったというのだろうか。
(なんて非科学的な・・・。)
実に頭が痛い。
「
佐保姫が歌うように言った。
それは私も僅かに気にかけていた、言葉のつながりである。
「・・・まさか、また私の名前が関係しているとか言うんじゃ・・・?」
「名前は古来よりとても大切な物。
相手の名前を知れば、呪うことも祟ることもできるのですから、甘く見ない方がよいでしょう。」
いつかと同じようなことを言われ、私は頭を抱えたくなった。
「それにしても、佐保高校には今年はずいぶんと懐かしい気配が集まっていますね。」
「やはりそうでしょうか。」
佐保姫の言葉に、今までにない食いつきを見せたのは狭穂姫だった。
「狭穂姫、貴女は生前、確かに
ですが
己に自信を持ちなさい。」
私の視点からは狭穂姫の様子は分からない。
だが夢で見たことを考えるならば、彼女の自分の
それも、それが自分たちの運命を大きく変え、佐保の運命をも変えたのであれば、ずっと心に病んでいてもおかしくない。
「大丈夫です、狭穂姫。
貴女なら誰が貴女の知る人か、見つけられるでしょう。」
佐保姫は春の女神らしく温かく朗らかな笑顔で、私たちにそう告げた。
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