「兵を集めよ」
「泣いているのか。」
目覚められたのだ。
大きな手が、頬に触れた。
優しく、涙をぬぐう。
これほどまでに、穢れた涙を、優しくぬぐう。
それでも涙は止まらない。
(あの美しく強い瞳を見たいのに。)
「不思議な夢を見た。
佐保のほうから村雨が降ってきて、急に私の顔に零れかかったのだ。
そして錦模様の美しい、愛らしい蛇が、私の首にまとわりついた。
この夢、どう読む。」
私の膝の上に頭を乗せたまま、帝は問いかける。
その声はひどく穏やかで、威圧感はない。
だからこそ私は、心苦しい。
彼の眼には私の手にある
ところが逃げようとしない。
首をさらして、じっと私を見つめるばかりだ。
私が刺さないことを、そして刺せないことを、知っているのだろう。
私はこれほどに愛おしい天皇を裏切った。
そして兄をも裏切った。
これが定めなのであろう。
私は人の子。
母のように、山の一部にはなれなかった、未熟者。
私はその役目を終えた
膝に乗る
だがこれが最後だ。
私はなるべくゆっくりと口を開いた。
「私の兄である沙本彦が、私に『夫と兄とどちらが愛おしいか。』と問いました。
私は『兄上です。』と答えました。
すると兄は『共に天下を治めよう。天皇を殺せ。』と言って、鍛え上げた
私はあなたの首を取ろうとしていたのです。」
何度も考えた台詞だった。
一度も閊えることなく、すらすらと口から出てきた。
「だができなかった。
3度も振り上げながら。
まるで陽光を刃で反射させて、私を目覚めさせようとしていたようだな。
挙句涙を零す等。」
いつも通り、愛おしさと慈しみが溢れ、私を包み込んでしまうような笑顔だ。
彼は天皇。
全てを統べ、全てを見通す彼の目に、何も隠せることなどないのかもしれない。
私の思惑も、私の想いも、彼はきっと全て知っている。
私はそんな彼を、彼の春のような暖かいこの笑顔を、愛していた。
その笑顔を向けられる度その愛は深まった。
だがそれも、もう終わりだ。
終わりにしなければならない。
反逆者は、彼の
「お前は美しく素直な姫だ。
私の目に狂いはなかった。」
だが彼は、頑なに私を引きとどめようとする。
それが胸を締め付ける。
「もう少しで騙されるところだった。
良く助けた、機転を利かせたのだな。」
天皇は身体を起こし、そっと私を抱きしめた。
「そう、もう少しで危ないところだった。
反逆に気付けたのは、お前のお蔭だ。」
赤子をあやすように、背中を叩く大きな手。
もしかしたら、天皇はすでに兄の件も私の持つ匕首のことも御存じだったのかもしれないと思った。
それでいて私を庇うために、まるで私が彼を助けたかのような演技をしているのかもしれない。
兄への愛おしさを捨てきれぬ私の弱さまでをも、包み込む愛で。
だが私は、もう彼の傍にいることはできない。
彼が許しても、彼の
そして孤独な兄の心を救うためにも、私は彼の傍から離れねば。
天皇の手が背中から肩を回り、頬に触れ、頤をつかんだ。
その漆黒の強い瞳が、私の視線を捕らえ、逸らすことを許さない。
「そなたが真に愛するのは、誰だ。」
その問いかけは静かであるのにひどく強く、彼の瞳は先ほどまでと打って変わって恐ろしい憎しみが燃えていた。
このような瞳を私は今まで見たことがない。
「勿論・・・」
天皇に問われたら答えようと心に決めた「兄」という言葉。
自分が反逆者として殺されるために必要なその台詞を発しようとした喉を、天皇が絞める。
嫁いだころに一度だけ見た、彼の力だ。
(彼は全て、お見通しだ。
私がこれから、しようと思っていることも、全て。)
「例え嘘偽りであろうと、私以外を愛すると言うな。
今後、如何なることがあろうと。」
彼の瞳に宿る色は、嫉妬だ。
激しい嫉妬だ。
彼は私をひしと掻き抱いた。
「私から離れることも許さん。
腹の子共々な。」
くぐもった声が、鼓膜を揺らす。
私の目に溜まった涙が、零れ落ちた。
私は弱かった。
私は遅かった。
私は裏切った。
私は、
私は、
私は・・・・もう許される身ではない。
天皇は私を離し、戸口へ向かう。
扉を開けると風が抜けた。
彼の髪をなびかせた風が、私の髪をなびかせる。
その風全てを吸い込んでしまいたいほど、私は彼を愛していた。
だが、彼の言う「今後」が訪れることは、無い。
反逆者の一族がたどる運命は、遠い神話の世界から決まっているのだ。
それこそ、定めだ。
彼の御代のため。
この国のため。
「兵を集めよ!
沙穂彦の叛乱だ!」
天皇が高らかに戸外へ告げる。
辺りが一斉に騒がしくなった。
私は窓辺から室内の暗い影の中に退く。
恐ろしくないといえば嘘になる。
だが時を止めることはできない。
たった一人では生きては行けぬ心の荒んだ兄のため、私は死への道を歩き始める。
「・・・ごめんなさい。」
膨れ上がった腹にぽつりと呟く。
本来であれば皇子として大切に育てられる子であったはずなのに、その未来は最早潰えた。
「貴方に罪はないのに。」
お腹をそっとなでると、中から足が力強く蹴り返した。
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