「閉ざされた心」
兄の言葉に、初めて嫁いだことを悔やんだ。
たった一人の兄を、こんなにも苦しめる必要がどこにあっただろうかと。
私達は愚かだ。
実際に離れてみなければ分からなかったのだ。
母の言ったように未来を考え尽くすことなど、できないのだ。
「お前は本当に
咎めるように声を荒げながらも、私をひしと抱いて離さない兄の思いが、私に流れ込んでくる。
まるで水に溺れるような息苦しさ。
全力で山を走った後のような息苦しさ。
兄は、苦しんでいた。
孤独に苛まれ、彦の重責に耐えきれず、そしてそれを訴える相手も失って、ただ独り。
少し触れ合わぬうちにすっかり逞しくなった兄の胸に泣きつきながら、私は思わず首を振った。
「兄上・・・私は兄上が愛おしいです。
だから、だからそんなに、苦しまないで。」
兄がそっと身体を離した。
「それは、真か。
あ奴よりも、私を愛おしいと!」
兄上の目の色が変わった。
星月の光を受けてきらきらと輝く瞳。
頬も涙の跡が光っている。
私は僅かに
兄は再び私をきつく抱きしめ、昔のようにその艶やかな髪に頬擦りした。
何と懐かしい感覚だろう。
そのくすぐったさに私も微笑む。
「俺はお前を見放したりはしない。
お前の真価を、分かっているからだ。
10年経とうと、20年経とうと、この愛は変わらぬ。
お前が生まれたその日から、私はお前を誰よりも愛していた。
二人でひとつだと、そう信じて生きてきた。」
どくりどくりと脈打つ兄の心臓の音に、私はふと我に返る。
母の言葉が蘇る。
―貴女はただ一つの命―
兄上は私の手に、何かを押しつけ、握らせた。
私はそれを見て、事を知る。
手の中にあったのは、匕首だ。
美しい紐の付いたそれは、きっとこの時のために、私のために作ったのだろう。
兄が鞘から抜くと、その刃は兄の瞳のように鋭くそして美しいほど残酷に輝く。
鍛え上げられたそれは軽く触れただけの私の指を赤く染めた。
手首を伝い、それは床に赤い染みを作る。
答えてはならぬ答えを出してしまったと、取り返しのつかぬことを言ってしまったと、体が硬くなる。
だが発した言葉は取り消すことなどできはしない。
この、赤い染みのように。
―貴女は覚えておかねばなりません。
外界と交わった貴女はもう二度と、佐保の姫には戻ることはできない。
これが貴女の望まなかった結果であっても、これから先貴女が何を望もうと。―
母はきっと知っていたのだ。
この未来を。
兄を見上げると、彼の眼には、もはや私は見えていない。
彼が見ているのは、未来だ。
血の流れる未来。
母上が嫌った、争い。
「共に、天下を治めようぞ、狭穂姫。」
離れた兄の手。
「兄上。」
正気ですか、と尋ねたかった。
何故そんなことを、と問いただしたかった。
なりませぬ、と諫めたかった。
しかし目の前にいる己を失い、私を見ていない瞳に、言葉をかける力はない。
それよりも一刻も早く、兄から離れてしまいたかった。
この佐保から出ていきたかった。
「美しいお前なら、殺せるはずだ。」
兄上の目は、嘘をついていない。
森がざわめく。
秋風が、戦慄いている。
これは進んではいけない道だと、佐保は必死に伝えてきているというのに、なぜ兄にはそれが分からぬのか。
「佐保を共に治めよう。
佐保の山もお前を待っている。
里の民を幸せにしよう。
そして、この国全てをも、幸せにするのだ。」
その未来を思い描いているのか、満足げな微笑みを浮かべる。
しかしその微笑みは私には恐怖だ。
昔の、まっすぐ佐保を愛し、争いを嫌った兄を失ったことへの恐怖。
だがそんな兄も今、恐怖の中にいる。
この佐保を失う恐怖の中に。
愛しい山から嫌われてしまう恐怖に、彼はもう、心を閉ざしてしまった。
そしてあまりの恐怖に、私もまた兄への心を閉ざしてしまった。
「頼んだぞ、狭穂姫。」
兄が私の手の上から匕首を握った。
私の体は震えていた。
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