4月1日

「都」

「これが、纒向珠城宮マキムクタマキノミヤ・・・。」


 遥か遠くからでもその存在が認められるほど大きな宮に、私は言葉を失った。

 こんな広大だなんで、想像もしていなかった。

 川だって、あれは人工だ、神の気配がない。

 岡のように見えるのも、人工だ。

 誰かの墓だろうが、とにかく大きい。

 祭殿も、物見櫓も、目を見張る大きさだ。

 その上、外とは環濠や板壁ではっきりと分けられている。


 宮は、山から遠い。

 山から自ら分け隔てたのだ。

 人が、人のために作った。

 人が、自らの力で生きていこうとして作った。


(・・・恐ろしい。)


 自然の中に生き、自然と共に生きる佐保で育った私には、その景観は恐ろしく思えた。

 それは天皇すめらみことの力に対しての畏怖でもあり、自然から隔絶されて生きていくこれからの生活に対する恐れでもあった。


 呆気にとられたまま、私は与えられた家の中に座り込んでしばらく経つ。

 この私の家として与えられた建物も、今まで佐保で見たどの建物よりも大きい。

 その上、この近くにはもっと大きな建物もたくさんあるのだ。

 稲の豊かさゆえか、土地の名前ゆえ稲が豊かなのかわからないが、佐保という名は穀物の神を表す「サ」、稲穂の「ホ」が由来なのだと伝え聞いている。

 土の上に稲で編んだ筵を敷いて生活してきたから、佐保の稲は触れればわかる。

 ここの筵は、冷たい。

 大きな大きな家だけれど、今日から私の家だけれど、この家はどこか他所他所しい。


 荷を解く気にもならない私の目の前に、天皇が現れ、呆気にとられた私の様子を見て笑った。


「都は初めてか?」


磯城瑞籬宮シキノミズカキノミヤには幼いころに一度・・・ですが、規模が全く異なっておりますね。」


「そうだな。

 治める土地が広くなると何かと必要でな。

 政治も祭祀も大掛かりになる。

 敵に備えれば倉庫も物見櫓も大きくなる。

 何よりあまりに簡素だと示しもつかぬ。」


 確かに、地方豪族の方が立派な建物を持っていれば天皇の名折れだ。

 天皇は快活に笑うので、私もつられてくすりと笑う。

 ようやく肩の力が抜けた。

 天皇の前であれば緊張するのが普通であるのに、不思議だ。


「佐保が恋しいか。」


 細められた目に、私は答えられない。

 もちろん恋しい。

 来て早々だが、今すぐにでも飛んで帰りたい。

 だが、それは叶わぬこと。

 これからここが私の住処なのだから、今恋しいと泣いてしまえば、毎日毎日泣くことになる。

 それは、悔しい。

 佐保の姫とはこの程度の、ただの子どもではないかと笑われてしまう。

 私は俯いて唇を噛んだ。


「素直に言えばよい。

 帰りたい、と。」


 子どもに言うかのように、天皇は優しく語り掛ける。

 だがそれが私には気に喰わない。

 彼は私を何だと思っているのか。

 力は弱いけれども、私は、私は佐保の名を持つ姫である。

 ゆくゆくは兄と共に佐保を治めていくはずであった、姫である。

 確かに、確かに弱いけれども。


「恋しくなど、ありません!」


 小さくともはっきりと私は答え、天皇を見上げる。

 見上げた先には、穏やかな微笑みを浮かべる美しい顔があった。


「子ども扱いはおやめください。」


「そうむきになるところが愛らしい。」


 彼の「愛らしい」は、子どもらしいという意味に違いない。

 その証拠に声を上げて笑っている。

 私を佐保から引きはがし、佐保を奪っておきながら、この人は何を馬鹿にするのか。

 だがここでやめてくれと怒ればまた、彼の思う壺に違いないと、必死に堪える。

 そんな私の前に、天皇は座って指先で顎を掬う。


「素直になれ、狭穂姫よ。

 春の風のように、時には柔く、時には激しく、それがお前であろう。

 ん?」


 その態度についに私の我慢が限界に達した。


「馬鹿にしないで!」


 音を立てて天皇の手を振り払う。

 まずいことをした自覚はあったが、もう引き返すことはできない。

 佐保に送り返されるならそれで結構、やはり私に天皇の妻など務まるはずがないということが、彼自身にもわかったはずだ。

 野山を駆けずり回ったじゃじゃ馬の私に、都暮らしは向かない。

 思いっきり睨みつければ、天皇はまた楽しげに笑う。


「そうだその意気!」


「何がです!

 出て行って!」


「おうおう、出ていこう、春の姫君。

 これは春一番に追い出されてしまった。」


 天皇はからからと笑いながら立ち上がる。

 私の腹の虫は収まらない。


「もう!

 馬鹿にして!」


「馬鹿になどしておらぬ。

 実に愛らしいと褒めているのだ。」


 天皇は背中を向けてゆったりと出口へ向かう。


「そういうところが馬鹿にしてるって言うんです!」


 私も思わず立ち上がって背中に怒鳴った。

 姫として、また天皇に対してあるまじき行為である。

 ところが天皇は振り返って穏やかに微笑んだ。


「そうかそうか、わかったわかった。

 ではまたな。」


 そして出て行ってしまった。

 彼と自分の差があまりに大きすぎて、私はへなへなと座り込んだ。

 私は彼に、到底敵いそうにない。

 あの方はやはり誰よりも人の上に立ち、この世を新たな形へと作り変えるお方だ。

 そして、誰よりも、活きる力の漲るお方だ。

 この冷たい都で、彼だけが生きているように見えるほどに。


「・・・母上・・・兄上・・・。」


 大好きな家族を呼んでも、もう誰も答えてはくれない。

 佐保であれば草木が慰めてくれたであろうが、ここはそんな草木さえない。

 山から、命からかけ離れた場所である。


 両手で顔を覆う。

 目を閉じれば瞼に浮かぶのは、豊かで美しい、佐保。


(私は佐保で、山と共に在れたらそれで幸せだったのに。)









 都での生活は知らぬことばかりだ。

 出会う人も、場所も、しきたりも、覚えることが多すぎる。

 天皇とて毎日多忙であろうに、彼は不思議と毎日私の顔を見に来る。

 まだ妻は私一人だからだろうか、それとも物珍しいからだろうか。


「なぜ私を妻にされたのですか。

 佐保を治めるためですか。」


「随分とはっきりと聞くな。」


 私の問いかけに高価な装飾品から顔を上げて驚いた顔をした。

 ちなみにその装飾品は私がつい先程突き返したもの。

 大陸産の珍しい逸品らしく、確かに初めて見る美しいガラスの首飾りではあったが、私はどうも身に馴染まなかった。


「素直になれとおっしゃったのは、天皇です。」


 むっとしてそういえば天皇は、その通りだ、と楽し気に笑った。


「佐保を抑えるためであるのは間違いないな。

 無駄な血を流すこともなかろう。」


 予想していた答えだ。


「母に掛かればあなた等返り討ちになったに違いありません。」


「そうやもしれぬ。

 だが、その母の次の代は、どうであろうな。」


 天皇の瞳が急に冷たく、遠く感じた。


「お前とあの兄であれば。」


 大きな手を、彼は見つめた。


「私の手に掛かれば。」


 そしてその手を私が見ていることを確認し、強く握った。

 その瞬間、何も起きていないのに、一瞬喉を絞められたように感じた。

 思わず首元に手をやる。

 それと同時に彼が手を開き、私にも呼吸が戻る。

 何が起きたのか、分からない。

 恐怖に汗が流れる。

 身体が震える。

 ヒメでもないのに、なぜ彼がこんな力を使えるのか。

 理由など、彼が、彼こそが天皇であるということ以外思い当たらない。


 彼は今、私の前で天皇になったのだ。

 この世を統べる、王の顔に。


 それを痛感するとともに、普段私に向ける顔は天皇としての彼ではないのだということに気づかされる。


 母の瞳を直視して、誰も嘘をつくことはできない。

 母は、天皇が佐保を奪うために私を娶ることを知っていた。

 そして私たちの力が、彼に遠く及ばぬことも知っていた。


 美しい佐保に血を流させぬにはどうすればいいのか、母は、そして佐保の山々は知っていたのだ。

 受け入れられないのは、私達兄妹だけ。

 美しい佐保を愛している私達は、いつまでも佐保と共に、今までの麗しい佐保と共に在りたいと望んでいる。


 だがその佐保にはもう、未来は無い。

 母の代で終わりなのだ。

 そしてこの都のような場所に、いつしかなってしまうのだろう。

 生命の息吹も、ぬくもりもない、寂しい場所に。

 あの佐保が、あの、佐保が。


 私の小さな胸は、張り裂けそうだ。

 震える私の肩を抱くのは、憎いことに天皇の逞しい腕。


「だが、私な愛に偽りはない。

 お前の母が言った通り。」


 そして私は、彼の腕にすがるしか無く、そしていつしか、彼の腕にすがり続けていたいと思ってしまった。

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