咲かない
諦めて生物室の仲間たちに餌をやりに回る。
春休みの餌やり当番がさぼられることもなく、皆健在だ。
「・・・沙穂ちゃん、どうしたの?
空気重いよ。」
開けられたドアからかかる心配そうな声。
振り返れば、見覚えのある赤眼鏡。
彼女こそ、今朝兄貴先生と連絡が取れなかった部長である。
「部長、これが重くせずにいられますか。
希ガスの中で一番重いラドンよりなお重い。」
「ごめん、私化学は苦手なんだよね。」
実験用の机にかばんを置きながら、部長は苦笑する。
「いつも通りでよかった。
心配しちゃったよ、なんだか今にも泣き出しそうに見えて。」
「そんなことないよ、ただ、怒りに燃え尽きた感じ。」
学校に訪れる春。
出会いと別れの季節と言われる春。
「兄貴先生なんて嫌いなんだから。」
2年間何度も呟いたこのセリフとも、もうお別れなのだ。
清々する、と言ってやりたいところだが、どこか寂しいと思う自分がいた。
「また兄貴先生?
今度はどうしたの。」
呆れたような部長の言葉。
いつものお決まりなのだが、これももう。
「転任だって。」
「え!?本当に!?
回ってたリストに入ってなかった・・・って、うちの学年担当してなかったからか!」
「そうなんだよ。」
部長もやはり同じ罠にはまってたらしい。
「何も贈るもの用意してないよ・・・。」
部長は頭を抱えて座り込んだ。
地方版確認しとくべきだった、という呟きが漏れる。
「さっきの後ろ姿の理由が良く分かったよ。
沙穂ちゃんなんやかんや言って、兄貴先生のこと大好きだったもんね。」
「それは違う。
ちょっと物の分かる先生だな、とは思ったけど。」
「はいはい。」
部長はため息をついた。
「どうしようもないか・・・春だもんね。」
「そうだねぇ。
まぁ、春ですから。」
やっぱり出るのはため息だ。
「そう言えば、沙穂ちゃん気づいた?」
「何を?」
部長は首をかしげ、それから、ああそうか、と一人納得する。
「いつも見ないようにしてるんだっけ。」
無意識にそうしていたことを思い出し、沙穂はひとつ頷く。
部長はつかつかと窓辺に歩いていき、私が制止するより早く、締め切られたカーテンを勢い良く開けた。
薄暗かった生物室に、刺すように朝日が飛び込む。
水槽の泡が弾く。
締りの甘い水道から、水滴がこぼれる。
亀が水を掻く。
「見てみなよ、今年の桜。」
部屋が、一気に生き返った。
「・・・眩しい。」
厳しい冬を超えた、生命の輝きが満ちる季節。
感動の別れと、期待を内包する出会いを彩る満開の桜が、そこには広がっているはずだ。
――この季節は嫌いだ。
初めて桜を見て泣いたのは高校一年生の時。
入学式のために桜並木を歩いたら突然涙が溢れた。
自分でも理解できない現象に、慌てて通学の列から外れ、校舎の裏に駆け込んだ。
どうすれば止まるのか、考えても思い浮かぶはずもない。
桜の花粉症なんて聞いたことがないし、第一こんなに涙ばかりが溢れるなんておかしい。
まるで古傷が開いたように心の奥深くが疼いて、とにかく止められなかった。
ーどうした?ー
かけられた心配そうな声に、私は顔をあげることすらできず、首をふった。
いつの間にか優しい手が背中をさすってくれていた。
顔をあげると、私を安心させるかのように柔らかく微笑む女性。
胸の疼きがなぜか、殊更酷くなった。
彼女を知っているはずなどないのに、ひどく懐かしく、そして、ひどく悲しい。
ー大丈夫、今は何も言わなくていい。ー
なにか説明しなくてはと口を開きかけた私に、彼女は言った。
ー中、入ろうか。ー
そしてやってきたのがここ、生物室だった。
言わずもがな、ここに連れてきてくれた女性は、兄貴先生である。
高校に入学して以来、私は桜の花を見ると必ず涙が溢れてしまう。
何度か桜を見ようとチャレンジしたが、そのたびに涙が溢れてダメだった。
それ以来、私は桜を見ないように、見ないように、と心がけて生活してきた。
だからこの季節、生物室のカーテンは閉め切られている。
今日も窓の外には、眩しい光をいっぱいに受ける咲きかけの桜があるはずだった。
毎年私が嫌う季節がやってきていたはずだったのに、その景色は冬のまま、殺風景な裸の枝のままだった。
「えっ桜は?」
「それが、なぜだかこの佐保高校周辺だけ咲いていないの。」
窓辺までいって確認するが、蕾はまだまだ硬い。
本当に冬のままだ。
例年であれば今時分、ここ佐保高校の桜は盛りのはずである。
「ここだけ?」
「ここだけ。」
桜を見なくなって3度目の春を迎える私にとって、日々桜から目を背けなくていいのならば清々する、と言ってやりたいところだが、やはりどこか寂しいと思う自分がいた。
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