兄貴先生
「先生、どうしたんですか、急に。」
息も切れ切れに、生物研究室の扉を開けると、この部屋独特の匂いがした。
水槽のあぶくや、プレパラートを洗ったときにガラスではじける、あの匂い。
水だ。
この部屋は水の匂いで溢れている。
それは全ての始まりの香り。
鼻につかないわけでもないし、好きでも嫌いでもない。
でもしばらく感じないとなんだか無性に寂しくなってしまう、そんな微かな依存性を孕む。
ちなみに私はすでにその中毒患者のひとりだ。
私を呼び出した張本人である秋篠先生は、段ボールになにやら荷物を詰めているようだ。
背中で揺れる束ねられた髪はいつ見ても艶やかだ。
それが本人曰く切りに行く時間がなくて伸ばしっぱなしになっているだけだというのだから、羨ましい限りである。
壁の時計を見れば8時ちょうど。
呼び出された時間きっかりである。
「お、早いね、染井。」
段ボールから顔をあげてひょいっと片手をあげた先生に、私は足音を立てて近づく。
男勝りで頼りがいがあるが、ちょっとルーズでマイペースな先生は、着任当時から人気者。
秋篠先生が秋先生になり、いつの間にか兄貴先生になってしまったのには笑えるが、今ではすっかり馴染んでいる。
ちなみに先生もこの佐保高校出身だ。
「早いって・・・兄貴先生が急に8時までに来いっていったんじゃないですか!
駅から走りましたよ。
次からは前日には連絡してください。」
いつも通りのセリフをため息交じりに言う。
そう、これは顔を見合わせれば言っているセリフなのだ。
ルーズでマイペースな兄貴先生にはいつも振り回されっぱなし。
実験の準備をしていたのに、急に科学館に行こうと言いだしたり、呼びつけておいて呼んだこと自体忘れていたり、自由研究のコンクールの提出期限を2週間も間違えていたりと言い出したらきりがない。
今日だって授業はないからゆっくり来ようと思って、見た夢の内容「出逢い」をのんびり書き留めていた朝6時過ぎ、『8時集合!』という簡素なメールが来て固まった。
聞くところによると社会人になってもう4年目になるはずなのだが、報連相の大切さを何度説いたところで無意味だと私は痛いほど知っている。
だが言わなくては腹の虫がおさまらないのが、感情を持った人間という生物でもある。
「んー。」
先生は最早お決まりとなっている生返事をしながら、壁に掛けてあったカレンダーを外してきれいに並べた資料の上に乗せ、段ボールの蓋をした。
「華麗なる菌世界」
このカレンダーのタイトルだ。
確かに毎月美しい菌類の写真が掲載されている。
昨年はたしか「日本爬虫類日記」だった。
私が入学した年は「毎日微生物」だったか。
流石生物の先生だと思った。
ちなみに毎月1日はその月のページに載っている写真についての講義の日になっている。
お陰さまで私もそれなりの知識をつけることができた。
そんなカレンダーの今日――3月29日に書かれた言葉に、私は首をかしげる。
「異動?」
「ああ、そうそう。
本当は部長に言いたかったんだけど、つながんなくてさ。
悪いね。」
このご時世に部長はスマホを一応持ってはいるが、携帯しているわけではない。
鞄に入れっぱなしであったり、充電しっぱなしであったりで、連絡しても返事がなかなか来ないことはざらだ。
スマホに縛られない部長の生き方は称賛に値する一方、周りからすると大変不便である。
「私転任するんだ。」
驚いて見上げる私に、先生は首をかしげる。
「新聞見なかった?
貴方ならチェックしているとばかり思っていた。」
「見ていませんよ、だって地方版にしか載らないじゃないですか!」
「じゃあこれからはチェックすることだ。
面白いよ、地方版。」
私に再び背中を向け、おおっと忘れてた、と机の上に出したままになっていたボールペンをポケットに突っ込む。
「っていうか今日離任式じゃないですか!
それより、もっと早く言うタイミングもありましたよね!?」
先生は、ははは、とわざとらしく背中で笑った。
「なんていうか、ほら、自分から言いにくいからさ。」
その言い分は一理ある。
部活の顧問の先生が異動する際には、ささやかながら送別会をするのが常。
ところが当然ながら私達は、先生に色紙も花束も用意していない。
今日が離任式だというのに。
クラスの子から回ってきた異動リストに兄貴先生が入っていなかったから、なんていうのはただの言い訳に過ぎない。
考えてみたら兄貴先生は私達の新3年生は教えていないのだ、クラスの子もリストから外したに違いない。
気まず過ぎて言葉が出ないでいる私を他所に、先生は最後に白衣を脱いぎかけて、
「いや、これはまだ着たままでいい・・・か。」
とボタンを留めなおし、いつも通り颯爽と私の横を通り過ぎた。
「じゃ!」
研究室の入り口に立つ眩しい笑顔は、私に背を向け去っていく。
「どこ行くんですか!?」
戸口まで駆けて行って背中に問いかける。
「まだ片付け残ってるんだ。
急がねぇと教頭にどやされる。」
振り返ることのない背中が、速足で遠のいていく。
そりゃどやされるだろう。
だって今日は離任式だ。
「コウモリのグループ研究どうするんですか!?
夏発表ですよね!?」
何か言わなければと思い、咄嗟にどうでもいい言葉を投げかけてしまう。
思わず自分の可愛いげのなさに眉をひそめるが、先生はくるりと振り返ってにやりと笑った。
「ああそうだ、それ言おうと思ってたんだった!
次の先生にちゃんと伝えておいたから安心しろよ。
じゃあな、染井。
頑張れよっ!」
右手を軽く上げてから、今度こそスリッパの音を廊下に響かせて、行ってしまった。
振り返れば、いつもは山のように参考書や書類が積まれていた机には何も残っておらず、すぐ隣にあった本棚も空っぽ。
後ろのロッカーに入っていた名札も外されている。
一言で言ってしまえば、先生のいた形跡は、何一つ残されてはいなかった。
「兄貴先生・・・。」
呼ぶ声はむなしく、水槽に消えるあぶくのごとし。
青緑がかった生物準備室のもう一つの扉を開け、私は生物室に移動した。
カーテンは全てぴっちりと締め切られており、室内は薄暗い。
私はどかりと教卓の正面の長机に座る。
(いつもそうだ。)
部長も常々嘆いている。
兄貴先生はルーズでマイペースで、みんなを巻き込んで。
「兄貴先生なんて、大っきらい。」
鬱憤を込めてそう呟いてから、私は肩の力を抜いた。
公立高校の教師である以上、どうしようもないことなのだ。
泣こうが喚こうが、決まっていることだ、確認を怠った私が悪い。
いつまでも「今」が続くことなど、あり得ないのに。
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