3月29日
「出逢い」
散った桜の花が惜しくて、集めて糸を通して、髪に飾った。
鏡池に映してみる。
なかなかの出来栄えだ。
やはりこの佐保の桜は絶品。
小さい頃に伯父に連れられて都の桜を見に行ったことがあるが、その生命力はこの佐保の足元にも及ばない。
土が違うのか、空気が違うのか、私にはよくわからないけれど、この佐保が特別だということだけは身にしみている。
この国でも有数の美しく肥えた広い大地、それがこの佐保。
そして母、
母の力も、この国で有数だ。
特に預言の力は群を抜いており、闇を見るとまでに呼ばれている。
それだけでこの佐保を脅かそうという者はほとんどおらず、例えいたとしても母が手早く治めてしまうと聞く。
だからこの土地はいつも平和なのだ。
少なくとも私は生まれてこの方、争いに巻き込まれたことはない。
「ほう、美しい。」
突然かけられた声に振り返ると、見たことのない男性が微笑んでいた。
母が守るこの佐保に足を踏み入れるなど、常人ではあるまい。
結界はそうたやすく破れぬはずだし、この佐保にはたくさんの桜が生えている。
ここの桜は聖樹だ。
あらゆる夷類悪霊の侵入を拒む。
肉体のない悪霊でさえ、この土地にやってくることはできないのだ。
私はこの佐保で、親族以外を見たことがないし、そんなことができる他人を、私は知らない。
しかもここは、佐保の中でも随一の聖域である。
私のお気に入りの山桜が、風に煽られて男性の上に花を散らした。
そう言えば、周りの草木たちも、鳥たちも、彼のことを嫌がってはいない。
むしろ歓迎しているようにさえ見える。
私は静かに立ち上がった。
山桜の下にいる男性は、まるで春の帝のようだ。
遠く海を渡った向こうでは、春の帝をこう呼ぶらしい。
「青帝?」
問いかければ、彼は小さく笑った。
「さぁ、どうかな。
半分は、正解だが。」
不思議な人だ。
「あなたこそ、春の姫君では?」
「さぁ、どうでしょう。
半分は正解ですが。」
だから私も真似して答える。
ここ、奈良の東にある佐保の山は春の山として慕われているからこんなことを言うのだろう。
「やはりお前しかいない。」
青帝は綺麗に微笑んだ。
感じたことのない、強い命の脈動が彼の中に流れている。
こんなに強い人が世の中にいるなんて、初めて知った。
100年でも生きて生きられそうだ。
そう思ったところで、私はようやく彼が誰なのか気がついた。
母がまだ若く、祖母がこの地域を治めていたころのこと、都に行った際に出逢ったとある人のことを語り聞かせてくれたことがある。
―溢れる生命力の塊。
人の中で最も活けるお人でした。―
褒めるでもなく、貶すでもなく、ただそう言っていた。
母はいつもそうだ、人をありのままに受け入れる。
それこそが山と共にあり、神に仕える身としての在り方だと言っていた。
母の言葉はいつも真実である。
だからその人に違いないと、思った。
「まさか、
「御名答。
流石は
思いもよらなかった。
私はずっとこの麗らかな佐保の中で過ごしているから、世のことはあまり知らないが、この佐保の土地は天皇の領地ではない。
その直ぐ傍らにありながら、母の偉大な力で、自治を守り続ける聖なる佐保なのである。
絶大な力を持つ朝廷、また天皇とはいえ、この佐保に足を踏み入れることなど敵わなかったはず。
その佐保に彼がいる。
山も拒んでいない。
これがただ事ではないということだけは、世間知らずの私にもわかった。
「美しい山だ。
春がここから訪れると、人が言うのもうなずける。」
そっと山桜を撫でる天皇――
この人が治める今、世は安定していると聞いた。
これほどまで春の似合う方だからだろうか。
まるでこの春風に舞う、花弁のように美しくも、幹のような悠久を感じさせる。
水鏡に映る桜も、今が盛り。
生き物たちも一斉に動き出し、命の脈動がどくどくと感じられる。
そして私の小さな心臓も、何かが起こる予感にどくどくと激しく脈打っていた。
それを隠すように、私は天皇の顔をまっすぐ見上げた。
「ここは、この世で一番命が輝く春の佐保にございますゆえ。」
桜の枝でさえずる鳥が、嬉しそうに羽ばたいた。
この鳥も、同じようにこの山を愛している。
「お前は佐保を愛しているのだね。」
天皇は静かにそうおっしゃった。
「はい。」
だって、ここよりも素晴らしいところなど、私は知らない。
ここは、この世で一番美しい、水と緑の里山なのだ。
木々がざわめく。
喜んでいる。
山桜も盛んに花を散らす。
天皇も辺りの様子に気づいたようだ。
「これは?」
「母が参ります。」
この土地を治める母は、この土地に愛され、長として認められている。
祖母がそうであったように、母もまたこの山の一部なのだ。
できることならば私もそうでありたいと願うけれど、私の力は母のようには強くない。
山も私のことはまだまだ子ども扱いばかりして、愛してはくれるけれど認めてはくれない。
「申しましたでしょう。
娘はこの佐保を愛しておりますと。
また佐保に愛されてもいる。」
桜の向こうに、母が現れる。
この山の中で、母に隠し事はできない。
山は母の味方だから、何をしても母に知られてしまうのだ。
それがたとえ、この国を治める天皇であろうと、ここは母の城。
一族の聖地なのだから。
「困ったな。」
帝は小さく笑った。
敵陣のど真ん中にいるとは思えないほど、とても楽しそうに。
桜の花びらが、ふわりと水鏡におち、水面を揺らす。
丸い円が広がっていく。
この鏡はいつも、私の心を映し出す。
なぜだか今、私の心がざわめいている。
「だが私は、この娘に決めた。」
母は桜の下で、じっと天皇を見つめている。
母に見つめられると、何者も嘘をつくことを許されない。
邪な心は、全て見抜かれてしまう。
母はその邪な心を見ても決して動じることはない。
それが強き力を持つ者の定めというばかり。
私だったら弱いから耐えられない。
母はそのこともちゃんと知っている。
「この娘は天皇にお仕えするにはあまりに子ども。
心の弱き娘にございます。
他を探される方が、天皇にとってもよろしいかと。」
天皇は首を振った。
「心が美しい姫君だ。
まるでこの佐保の山のよう。」
「ですがこの娘はまだ山に愛されていても、認められてはおりません。」
「だからこそ、外に出ることができよう。
そなたのように山に愛されて長と認められてしまえば、この佐保から一歩たりとも外へは出れぬ。
山が追いかけてきてしまうからな。
都が草だらけになってしまう。」
彼はどうしてこんなにも自身に満ち、楽しそうに笑うのだろう。
都など、木も草も少なくて、寂しいところと聞くのに。
母はその間もずっと天皇を見つめている。
漆黒の瞳で、天皇の心を覗いているのだ。
この佐保の土地で、母に逆らうことは、きっと天皇ですらできない。
したら山に喰われてしまう。
「中途半端なこの娘、いかにされるおつもりでしょう。」
「愛する。」
即答であった。
私は思わず俯いて水鏡を見つめ、頬を染める。
花びらがどんどん舞い落ちて、水鏡に波紋を作る。
「永久に愛すると誓おう。
どんな時も、誰よりも、たとえ命果てようとも。」
勝気な笑顔は、水鏡にもうつされ、目をそらすことはできない。
「縁起でもないことを申されますな、天皇。」
母は、天皇が触れていた私の桜の木に、そっと手を重ねた。
「佐保が貴方を認めた。
そして貴方の愛は真にございましょう。
お話、お受けいたします。
ただし。」
草木がざわめく。
誰かが感情を荒立てている証拠だ。
この山で草木をざわめかせるのは、私以外にはもう一人しかいない。
それほどこの山は静か。
それほど未熟な、誰よりも未熟な、私達。
「彼が許すかは私の裁量の及ばぬところ。」
私の後ろに立つ大きな木から、青い影が飛び降り、私と天皇の間に割って入った。
腰の刀に手を掛けている。
何かあれば切りつける気だろう。
静かな着地の音に、水鏡に大きな波紋が起き、そして、いつも通り静かになる。
「兄の私に断りなく、妹を娶ろうとは、たとえ天皇であろうと許さん!」
「兄上!」
今や私のただ一人の兄弟。
他に2人の男の子がいたが、どちらも母の占いで、遠くに行ってしまった。
彼らには彼らの役目があると。
ただ、兄と私だけがこの佐保に残った。
肩を寄せ合って、時には野を駆け、時には山を登り、共に大きくなった。
力は弱いけれど、二人でなら治められるはずだと、手を取り合って成長してきた。
「聞いておったのであろう。
山に認められ、邪なき愛を携えし者が現れた。」
母が淡々と述べる。
「しかし我らは2人でおらねば、佐保を治められません!」
兄が言うことは事実だ。
私も兄も、力が弱い。
2人でやっと母の若い頃に及ぶ程度だ。
母のようにこの佐保を治めていくには、私達2人が、ここにいることが条件となる。
私達が離ればなれになれば、この佐保は失われる。
失われた佐保はどうなるのか。
答えはひとつだ。
目の前に立ち塞がる彼こそが、新たな統治者となる。
「それは我ら人の子が決めることではありませぬ。」
母は桜の木を見上げる。
「この佐保の土地が決めること。
人は弱く小さい。
山の一部として生きることこそ、平和への道。
何度説けばお前は分かるのです。」
「私はこの地に一滴たりとも血を流したくない。
今まで通り、守り続けたいだけです。」
「季節が移ろいゆくように、世も変わってゆく。
固執は身を滅ぼす。」
母の目が兄を見据える。
彼の中の、怒りを見ているのだ。
「ですが!」
「天皇、お分かりですか。」
母は兄の言葉を遮り、天皇を見た。
「佐保の彦も姫も、未熟にございます。」
その通りだ。
私たちは未熟。
だから母のもとでこうして2人、身を隠すように生きている。
肩を寄せ合い、深い山の奥で。
外に出るなどもっての他。
しかし突然天皇は笑い始めた。
「未熟で結構。
成熟した者などつまらぬ。
我とて未だ未熟者よ。
未熟だからこそ、そなたの娘がほしい。」
その笑い声に、兄も毒を抜かれたのか、肩の力が抜けたのが、後ろ姿からも分かった。
「知りませぬぞ。」
母は静かに言った。
母の予見はいつもあたる。
きっと今も、何かを知っているのだ。
「構わぬ。
言ったであろう。
永久に愛すると。」
天皇は朗らかに笑う。
母の予言を聞いた人は、いつもみな恐ろしいとひれ伏すのに。
「天皇、母の申すことに従われた方がよろしいと思います。」
私は口を開いた。
「御存じないかもしれませんが、母の予見は真。
忠告には素直に従う方がよろしいと思います。」
天皇は勝気に笑った。
彼は良く笑う。
本当に、よく笑われる。
「しかしな、姫君。
私の心は奪われてしまったのだ。
これもまた定め。
何が起ころうと、もう覆すことはしない。
兄君よ、いかがかな。」
私からは兄の背中しか見ることはできない。
表情など分からぬが、その感情の波が、先ほどよりも納まっていることは、草木のざわめきで感じられた。
一匹の青い蝶がふわふわと飛んできて、剣にかけられた兄の手にとまった。
兄を慰めているように見える。
「・・・母が許すのであれば。」
私たちは弱い。
力も、知恵も、共に浅い。
だからこそ、母の言葉を信じて進むしか、ないのだ。
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