ぬばたま

 私は杉本君の正面に腰を下ろす。


「それは?」


「古今和歌集です。」


 彼はぱらぱらとページをめくり、手を止めて私に見せてくれた。


「小野小町は御存じですね。」


「うん。

 綺麗な人だったんでしょ?」


 彼の指先が示す名前は教科書でも見たことがある。


「はい。

 それ故に恋も多く、そして歌も上手かったと言います。

 当時の恋愛上手は歌上手ですからね。」


 そう言ってくすりと笑った。


「この三首は連作となっていて、有名なんですよ。

 思ひつつ 寝ぬればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

 うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは たのみそめてき

 いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を かへしてぞ着る」


 最近、杉本君のおかげでずいぶん和歌に触れることが増えた。

 彼の話す和歌は、授業の和歌とはどこか違っている。

 問題集や教科書に載っているのではなく、案外私達のすぐそばにあるもの。

 科学技術がすっかり発達した私達にも、何となく近い感覚が残っていて、それがぼんやり刺激される感じなのだ。


「思いつつ 寝たから貴方を 見たのかな 夢だと分かれば 起きなかったのに

 うたたねに 恋しい人を 見て以来 儚い夢を 頼みにしていて

 ああせめて 恋しい時は ぬばたまの 夜の衣を 裏返し着る」


「最後の歌、よく分からないな。」


 私の言葉に1つ頷いて解説が始まる。


「どうやらおまじないがあったらしいですよ。

 夜の衣、つまりパジャマを裏返して寝ると、夢で好きな人に会えるっていう。

『むばたま』は『ぬばたま』が変化したもの。」


「あ、それ聞いたことある。枕詞?」


「そうです。

 今は夜にかかっています。

 もともとはヒオウギという植物の種らしいですよ。

 植物図鑑はえーっと・・・」


 私達は行き慣れた窓側から二つ目の本棚の間を進み、しゃがむ。

 植物図鑑は一番下の段にあるのだ。

 杉本君も私の隣に片膝をついた。

 私が取り出した角がくたびれた図鑑は、出版年度はもう10年以上も前だけれど、使いやすくて気に入っているのだ。


「ヒオウギ?」


「はい。」


 索引で探し、該当するページを開く。


「綺麗なお花。」


 朱色に橙の斑点をもつ比較的細めの花びらが、6枚。

 同じくほっそりとした茎の上に乗るその様は艶やかだ。


「ほら、この種がぬばたまです。」


 そのイラストの横には、花とは打って変わって黒い艶やかな木の実が房のようになっている姿が描かれている。


「髪や夜の枕詞として、その黒さや艶やかな美しさを表すのにちょうどいいでしょう?」


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