「生きる理由」


 天皇スメラミコトの軍は一瞬にしてざわめいた。

 天皇への伝言を、家臣達は知らされていなかったのかもしれない。

 しかし、私と天皇にしたら、これは私達の中の最後の戦いなのだ。


 遥か遠くにいるはずの天皇が、男達に指示を出すのが、まるですぐ目の前で行われているかのようにはっきり見えた。

 鋭い眼光を私に向け、そのかんばせは凛々しく、ほんのしばらく見なかっただけだと言うのにまた一層この国の主らしい様子となっている。

 そんな彼に胸を締め付けられる己は、まだ彼をそれほどまでに思っているということだろう。

 その浅はかさを、恥ずかしくすら思う。


 10人の男達が前に出てきた。

 これが、私達夫婦の最後の戦いだ。

 私は無言で御子を抱いて前に進む。

 男の中の1人も、私の方へと進み出た。

 彼に子どもを渡す。

 その寝顔が、いつまでも安らかであるように、願いを託して。

 そして次の瞬間、身を翻し城へ走る。

 10人の男が私の体に手を伸ばす。

 不思議だった。

 ずっと吹いていなかった佐保の風が吹き始めた。

 城から吹き下ろす、向かい風だ。

 何故なのだろう、佐保は私をいらないというのだろうか。

 それとも後ろの男達に向かって吹いているのだろうか。

 どちらかわからないが、私は城に向かって走る。

 もう今の私には走ることしかできない。

 真っ先に掴まれるのは袖だと想像するのは容易かった。


 だからこそ。


「何!」


 袖は私が引く力と男の引く力によって、呆気なく敗れた。

 酒で腐食させておいたのだ。


 次に掴むのは、服の裾。

 これもやはり破れる。


 腕輪に指がかかるが、それも呆気なく宝石が散る。

 天皇が私に贈ってくれた、あの翡翠だった。

 私の心を守り続け、そして私の覚悟を守るために、散ったのだ。


 最後につかまれるのは、髪だと分かっていた。

 掴めるけれど、掴むことをためらうから。

 だから。


「どうなっているんだ!」


 髪は落ちた。

 当たり前だ。

 短く切り落として鬘にしつらえてあったのだから。


 小さな炎の上を走りきる。

 すると炎はまた大きく燃え盛った。


 気づけば風を感じていなかった。

 それもそのはずで、私は門の中に戻ってきていたからだ。

 炎の中に、自ら舞い戻ったのだ。

 しかしまだ気を抜いてはならないと、私は自分に言い聞かせる。


「最後に聞く、狭穂姫よ!」


 壁の外から声がした。

 私は彼を知っている。

 天皇の傍に仕えていた、国一番の勇者だ。

 勇まし出で立ちに、深い知恵を宿した瞳。

 彼がいるから、天皇は強い。

 しかし今回は私の勝ちだ。

 私の決意の固さが勝った。


「そなたはこの赤子を見捨てるのか!」


 赤子は目を覚ましたのか、泣き叫んでいる。

 一番聞きたくなかった声だ。

 しかしあらん限りの力を振り絞って、私は叫ぶ。


「ええそうです!」


 炎の向こうで兵たちが驚いた顔で私を見つめるのも、構わない。

 私は赤子にもよく聞こえるように、叫んだ。


「その子は強い。

 誰よりも強く、優しく、慈悲深い子になります。

 裏切り者の母などいりません!」


 そして私は燃え盛る稲城から離れる。

 振り返ってはならない。

 老爺が歓声をあげ、老婆が新しい着物を持ってきて、頭の上からまるごと隠す。

 私はそれを体に巻きつけたまま、唇を噛み締め、部屋へと戻った。


 天皇は賢く強く、兵にも恵まれている。


(しかし、女心をまだ少しご存知なかった。)


 思わず自嘲の笑みを浮かべる。

 もし天皇が私の手を掴んだのなら、きっと今ここに私はいなかっただろう。



(これでもう、生きる理由は無くなった。)

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