4月10日

水なき空に波ぞ立ちける

「咲いたんだ、桜。」


 新入生がやってくるよりもずっとずっと前、早朝の桜並木の坂の上で固い顔をした部長に私は一つ頷く。

 桜は、ソメイヨシノは間違いなく4月10日までに咲いた。


「確かに、咲かせろとは言った。

 せやかてな、お前!!」


 教頭先生はそこまで勢いよく言ってから、諦めたように深く溜息をついた。

それから改めて、佐保高校自慢の桜並木を見た。

西門からの坂道は、積もり積もった桜の花弁で美しく染め上げられている。


「まぁええか。

 これはこれで、趣がある。」


 校内、いや、佐保中のソメイヨシノが一晩にして咲いた。

 そして、校内のソメイヨシノだけは一晩にして散った。


 ぼうっと眺める私の頭に、スパンと軽い音を立てて教頭先生の扇子が振り下ろされた。


「痛っ!!」


「言うほど痛ないやろ。

 しゃぁないから予算については都合つけたるわ。

・・・どうせあと3年やしな。」


 教頭先生はくるりと私達に背中を向けて、体育館へ向かった。

 入学式の準備があるのだろうが、その背中はどこか寂しげだ。


「おはようございます、先輩。」


 入れ替わるように掛けられた声は、聞き慣れたものだ。


「あ、おはよう杉本君。」


 私の隣に並ぶ彼は、この桜の一件の首謀者の1人だ。


「じゃあ私先行くね!」


 何を思ったのか、部長はそう言って手を振り駆けて行ってしまった。


「先輩と違って空気の読める人だ。」


 杉本君が笑う。


「どういうこと?」


「そういうことです。」


 杉本君は桜色の坂道を見つめる。


桜涙病おうるいびょう、治ってよかった。」


 私に憑いていた狭穂姫は成仏した。

 だから私が彼女に感化されて泣くことは、もうない。


「そうですね。

 僕の中の魂も、どうやら心満たされたようです。」


 杉本君は胸に手を当てて大人びた微笑みを浮かべる。


「感受性の高い思春期は、魂が昔を思い出して涙を流してしまいがちなのだと、兄貴先生が言っていました。」


「えっ、兄貴先生ももしかして・・・」


 杉本君は深く頷く。


「学生の頃、桜涙病に悩まされたらしいですよ。

 まぁ僕と同じで記憶があったので、先輩ほどの困惑は無かったみたいですけれど。」


 同母相姦という禁忌を犯し、更には天皇スメラミコトに刃を向けた狭穂彦の生まれ変わりである兄貴先生。

 そして彼に愛された妹と、彼女を殺した天皇の血を引く誉津別命ホムツワケノミコトの生まれ変わりである杉本君。

 共に記憶を持って生まれ変わった2人の出会いがどんなものだったか、私には想像も出来ない。


 でも。


 ーありがとう・・・お前達のお陰だ、優しい佐保の桜。ー


 兄貴先生は昨夜、ソメイヨシノの幹を撫でて静かに泣いていた。

 それが兄貴先生の言葉なのか、それとも狭穂彦ものなのか、私には判別がつかなかった。


 先生には先生の人生がある。

 杉本君にも杉本君の人生がある。

 それぞれの魂の中に偶然にも、過去の記憶が混じっていたに過ぎない。

 でも2人はずっと苦しみを抱えていたのではないだろうかと私は思う。


「ソメイヨシノは待っていたんですよ。

 苦しむ狭穂姫の傍で、偶然という運命さだめが、僕達を引き寄せる日をね。

 古の怨霊を成仏させる為に、その命さえ捨てる覚悟で。」


 全ては小さな偶然だった。

 己のルーツも忘れた私が、この佐保にやってきたこと。

 狭穂姫が私に憑いてしまったこと。

 橘先生と、兄貴先生と、杉本君が集ったこと。


 それは、1700年の長い時を経た、偶然だった。





(いやもしかしたら、それこそ、運命さだめーー)






 散った花弁が風に巻き上げられ、昨夜を思い出すかのように、時折青空に揺蕩う。


 佐保高校のソメイヨシノは昨夜全て、寿命を終えた。

 手を伸ばし細い枝に触れると、あっけなくポキリと折れる。

 つまり水さえも含まないただの枯れ枝ということだ。

 つい昨日までの裸の枝とよく似てはいるのに、根本的にまるで別物。


そこに命は、ない。


 60年寿命説が正しかったとも言えるが、その突然の死から考えれば、昨夜生命力の全てを使い果たしたと考えるのが妥当だろう。

 一夜明けた今朝の佐保はどこも花盛りで、高校以外のソメイヨシノが生きていることは一目瞭然だった。






「桜花散りぬる風の名残にはーー」





 私は呟かれた言葉に隣を見る。

 突然和歌を呟くなんて、私の知り合いでは彼くらいだ。






「水なき空に波ぞ立ちける。」






 死んだ花の残骸である花弁が、風に乗り舞い上がる。


「誰の歌?」


「紀貫之ですよ。

 流石ですよね。」


 なぜ流石なのか、きっとそれはこれからの度重なる講義で彼が教えてくれるに違いない。

 私達は幸い、統一後幾百年の時を経た、戦のない平和な日本で出会えた。

 そして数奇な運命を辿った魂によって偶然訪れたこの出会いを、どうやら生涯忘れられそうにない。


 そっと、杉本君の手が私の手を取った。

 私は思わず繋がれた手を見下ろし、それからもう一度杉本君を見上げる。

 彼は穏やかに微笑んで、1つだけ頷いた。


(今はただ、その名残に浸ろう。)


 ソメイヨシノは悲しい花だ。

 人の為に作られた花。

 人の為に生きる花。

 その花が持った意志でさえ全て、人の為であった。


 青空に吹き上げられた花弁は波のようでも、水面の煌めきの様でもある。

 そこに確かにあった命を、吹けば散るような薄い花弁は、伝えている。


 西門の辺りが騒がしい。

 新入生が登校してきたのだろう。

 桜の絨毯に度肝を抜かれたに違いない。


 彼らは佐保高校最後の生徒となる。

 耐震性の問題で、佐保高校は3年後、廃校になることが決まったからだ。


(今日の朝刊で報じられた廃校の決定に、昨夜死んだソメイヨシノ・・・

これはしばらく話題に事欠かないだろうな。)


 私達はどちらともなく手を離し、杉本君は図書室へ、私は生物室へと歩き始めた。

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水なき空に波ぞ立ちける 吉晴 @tatoebanashi

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