触れる手

 狭穂姫と昨夜打ち合わせた通り、私は学校に着いて荷物を置くと桜並木まで戻ってきた。

 辺りに人気がないことを確認し、一本のソメイヨシノと向かい合う。

 力が弱く、実際に触れなければ分からないという狭穂姫に、心の中で呼びかける。


(いきますよ。)


 ソメイヨシノに触れる。

 ごつごつとした木肌から、ひんやりとした温度が伝わってくる。

 狭穂姫は何か分かっているのだろうか。

 木の幹に触れた手をじっと見つめる。

 いつも通りの私の手から、私には何一つ情報は伝わってこない。

 これは、ただのソメイヨシノだ。

 狭穂姫のことも、全てがまるで私の夢物語なのではという疑念が湧き上がる。

 そのくらい目の前の幹も私の手も、私の知るありのままの姿だった。





「先輩。」





 不意に掛けられた声に手を引っ込める。

 心臓が飛び出しそうになった。


「おはようございます。」


 振り返るといつも通りの爽やかな笑顔を浮かべた杉本君が、私を見ていた。


「お、はよ、う。」


 バクバクいう心臓のせいで吃りながら私はなんとかそう言った。


「どうしたんですか?」


「いや、その・・・」


 当然の問いかけに、私は口をぱくぱくとさせた。


「何か・・・分からない・・・かなーと、思って。

 行き詰まっちゃっててさ。」


 全く誤魔化せていないが、嘘はついていないし、変な人とは思われるかもしれないいが、狭穂姫のことを話すよりは幾分ましだろう。

 杉本くんは私の隣に来て、さっきの私のようにソメイヨシノに触れた。


「何かわかりましたか。」


 私のことを馬鹿にするでも変人扱いするでもない静かな問いかけに、首を横に振る。


「残念ですね。」


 一瞬細められた目は、私の向こうの誰かを見ているような気がした。


 昨夜の狭穂姫の言葉を思い出す。


 ー杉本君は、誉津別命ホムツワケノミコト

 橘先生は、天皇すめらみことです。ー


 人は基本的に、輪廻の輪に戻るときに記憶は全て失うものらしい。

 だから誉津別命ホムツワケノミコトの生まれ変わりだからといって、杉本君に何があるわけでもないのだ。

 魂の根本が同じというだけの話である。


 同じ時代に生きていた人のことだ、もし狭穂姫も同じく成仏していたら、また同じく生まれ変わっていただろう。

 そして今度こそ、幸せな人生を歩めたのかもしれない。

 不遇な人だと、思った。


 そして疑問に思ったのだ。

 夫も息子も、そしてともに死んだであろう兄も生まれ変わっているのに、なぜ、狭穂姫だけが、成仏できなかったのか。


 ーそれは・・・ー


 狭穂姫が困った顔をして口を開いた。

 私は自分の考えが彼女に通じていることをすっかり失念していたのだ。

 私は慌てて首を振った。


 ーごめんなさい、聞くつもりじゃないです!

 言わなくていいですから!ー


 誰だって、話したくないことの1つや2つ秘めているものだ。

 ましてや自分が怨霊になった理由だなんて、話したいはずがない。

 私の顔をした狭穂姫の、辛そうな表情が忘れられない。

 それは確かに私の顔を借りてはいるが、彼女そのものだと最近は感じるようになっていた。

 まだ短い間ではあるが、少しずつ彼女のことを私が理解してきているということだろう。


 目の前の現実から目を背け、昨夜を思い出していた私を引き戻したのは、杉本君の声だった。


のもとを すみかとすれば おのづから 花見る人になりぬべきかな」


 目の前の現実から目を背ける必要なんて全くなかった事を思い出した。

 杉本君は、急に和歌を呟く変人なのだ。

 私が何を気にすることはない。

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