第33話 『赤の国』の来客とティー・ロワイヤル

 二、三日経っても、リゼも、なぎの祖母の梓も、戻ってくる気配はなかった。


「ねえ、紫庵、リゼさんは、おばあちゃん達に何かあったであろう時から少し前に着くように、赤の国に行ったんでしょう? そんな説明だったわよね?」


 時の番人だというリゼには、時間と場所を移動することが出来る、という話だ。


「なのに、なんで未だに帰ってこないの? リゼさんもおばあちゃん達と同じようなことに巻き込まれてるんじゃ……」


 リゼがいないため、昼間の紅茶館からバーの時間帯に入ると、なぎもそのまま手伝っていた。


 紫庵は、知らない間に購入したらしいバーテンダーらしいカマーベストとウィングカラーシャツにクロスタイと、日中も使用している紫色の長いカフェエプロン姿で、なぎも用意されていた同じデザインの女性用の制服に着替え、黒いカフェエプロンをしている。


 閉店後の店内で、紫庵がティーカップを二つ置いた。

 なぎと自分の分だった。


「ティー・ロワイヤルを淹れてあげる。フランスのコニャック——ヘネシーとかレミーマルタンならもっと良かったけど、まあ、安物ブランデーでもいいか」


 ブランデーを浸して飴色になった角砂糖をスプーンですくい、着火すると青い炎が揺らめき、砂糖はぶくぶくと泡立ちながら溶け、崩れていった。

 幻想的な炎を、科学の実験を見るようにこわごわとしているなぎを見て、クスッと笑う。


 炎付き角砂糖を、キャンディの茶葉で淹れたホットティーに沈めた。

 ジュワッと小さく音がし、品のある香りがほのかに漂う。


「酔って変なことしないでしょうね?」


「香りを楽しみたいからアルコールは充分飛ばしたし、ワインじゃないから平気だよ。ワインだとどうも悪酔いするんだよね~」


「ブランデーの方が度数強いのに、ワインより平気なの?」


「僕はね」


 ホントかしら?

 なぎは両手で持ったティーカップを口元に近付けた。


「いい香り。キャンディの茶葉の甘い香りとよく合って、美味しいわ」


「でしょう? アルコールをちゃんと飛ばした方が紅茶と一体感があって甘くて美味しい。アルコールが残ったままだと、ブランデーの香りは楽しめるけど紅茶の苦味も渋味も出ちゃって、僕はイマイチだと思うんだ」


 感心して頷いたなぎを満足気に見てから、ソーサーとカップを持った紫庵は、ふーふーと息を吹きかけ、お茶を冷ましている。


「猫舌なら、ホットティーをさらに温めるようなもの作らなきゃいいじゃない」


 なぎがくすくす笑うと、紫庵は憮然とした。


「なぎちゃんが心配そうだから、落ち着いて寝られるようにと思ったのに」

「そうなの? ごめんごめん! お心遣い、ありがとう!」


 両手を合わせてすまなそうに笑ったなぎを、紫庵は憮然としたまま横目で見つめ、またカップを口元に持っていき、ふーふーと息を吹きかけていた。


「なぎちゃんとありすを心配させたくなかったんだけど僕もさすがに心配になってきたから、ちょっと鏡を見て来よう。その間にお茶も冷めるだろうし」


 紫庵は口も付けていない紅茶をテーブルに置くと、店の奥まっているところにある休憩室に向かい、なぎももう一口飲んでからカップをテーブルに置き、紫庵の後に続いていった。


「白のナイト」


 手を腰に当て、少々横柄な態度で、紫庵が鏡に呼びかける。


「あら? 紫庵は赤の国の民なんじゃないの? なんで白の騎士を?」


「彼の姿が見えたからだよ」

「見えた?」


 鏡から目を逸らさず答えた紫庵の目線をたどるようになぎも鏡を見つめるが、鏡に映る景色は休憩室のままだ。

 外国製のソファに猫足のテーブル、出しっ放しのチェス盤、暖炉の上の置き時計の裏面——代わり映えのない景色だ。


 それが、ぼやぼやと波打ち始める。

 つい最近リゼが入っていった時のように鏡の表面が揺れ始め、よく見ようとなぎが身を乗り出した時、紫庵の顔色が変わった。


「なっ、なんで!? なぎちゃん、よけて!」


 紫庵がなぎを軽く突き飛ばし、鏡から遠ざけた。

 ソファに倒れ込むと、鏡から何かが飛び出してきた。

 二人、それも女性だ。


 なぎは、紫庵が抱きかかえた方を見て叫んだ。


「お、おばあちゃん!?」


 イギリスに旅立った時の服装で、なぎの祖母梓は紫庵の腕の中から顔を上げた。


「……なぎ、そこにいたの?」

「おばあちゃん、無事だったの!?」


 なぎが瞳を潤ませ、祖母に駆け寄った時だった。


「……いっ……たぁい……! ちょっと、アールグレイ! なんで私を抱きとめなかったのよ!」


 赤いドレスを着た、艶のある金色の巻き髪をアップにした女が、床に手を付いて起き上がった。


「床に落ちたら、アズサの方がダメージ大きいからに決まってるだろ」


 うんざりした声でぞんざいに答えてから、打って変わった心配そうな顔で、腕の中の細い老女の顔を覗き込む。


「アズサ、大丈夫か? 怪我はしてないか?」

「おばあちゃん、大丈夫!?」


 紫庵から受け取るように祖母を抱えたなぎは、祖母の背をさすり、「ええ、大丈夫よ」と答えた梓の乱れた銀髪を整えた。


「良かった、おばあちゃん、無事で……良かった……!」


 祖母を抱きしめたなぎは、こみ上げる涙をこらえようとして声を詰まらせた。


 その隣で、すっくと立ち上がったドレスの女に気付く。女は、なぎよりも少し年上に見えた。


「まったく、リゼったらひどいわよ、いきなり突き飛ばすなんて。グレイもグレイだわ! あんたほどの長身なら女性二人くらい受け止められたでしょう? それなのにアズサだけ助けるなんて、私に対して悪意を感じるわ」


「まあ、どうとでも受け取ればいいよ」


 両手を腰に当て、辟易している紫庵を怒鳴りつけているその顔に、なぎは釘付けになった。


「ありすはどこなの? ありすー!」

「おい、静かにしろよ。九時にやっと絵本で寝たとこなんだから」

「絵本を読んだ? あんたが?」

「いや、そこにいるなぎちゃんが」


 女は振り返り、なぎを見下ろした。


「あなたがアズサの孫ね。娘を寝かしつけてくれて、どうもありがとう!」


 なぜか勝ち誇ったような威圧感たっぷりの女を見上げたまま、なぎは固まっていた。


「あ、あなたは……あなたが、赤のクイーン!?」


 赤の女王の隣で、紫庵が溜め息混じりに言った。


「そ。ウワサのメアリー・アン」

「ありすちゃんに……そっくり」

「ええ、よく言われるわ……っていうか、ありすが私に似てるのよ。当たり前でしょ?」


 クイーンは髪を直し、赤いドレスをはたいて形を整えた。


「赤の女王陛下、お怪我はありませんかのぅ?」


 白のナイトが、鏡の向こうから呼びかけていた。

 すぐさま振り向いたクイーンがキッと睨む。


「ちょっと! リゼはどこ行ったのよ? 私にこんなひどい仕打ちをして、このまま済むと思って?」


「リゼさんは、どうしたんですか?」


 心配するあまり思わず口を挟んだなぎを、クイーンは失礼だと言わんばかりに睨みつけた。


「質問しているのは私よ。あなたは黙ってて。白のナイト、リゼは私たちと一緒にここまで来ていたわ。何があったのか教えなさい」


「は、はい、赤の女王陛下、報告致します」


 白のナイトは慌てたあまり鎧姿で馬の上で片膝をつき、頭を下げたので、馬が暴れ、落ちそうになった。


「私が見たところ、白のルークと他になにやら物凄い勢いで迫ってくる動物のようなものがおりました。巨大な番犬のような、いや、オオカミとも思えるような! あんなものは見たことがございません! リゼは、陛下とそこの客人だけは助けようと『鏡の向こうの国』にのです。結果、突き飛ばす形に」


「それで、リゼさんは? リゼさんはどうしたんですか?」


 立ち上がり、女王と並んだなぎは、鏡の中の老騎士に夢中で尋ねていた。

 白のナイトは、なぎを睨みつけるクイーンを気にしながらも、なぎに視線を移した。


「女王陛下と客人を突き飛ばしたと同時に、リゼの姿も消えました。ルークも、オオカミだか番犬だかも近くまで追いかけた後にキョロキョロ探しているようでしたので、捕らえられたわけではないと思われます。おそらく、そのままグルジアの行方を探しに行ったのかと」


「じゃあ、まだ、リゼはそっちにいるんだね?」


 女王とは正反対に落ち着いた声で、紫庵が尋ねた。

 なぎは、ホッと胸を撫で下ろした。


「無事なら良かった。グルジアさんは、ご一緒ではなかったのですね?」


 なぎがクイーンに問いかけると、クイーンはますます怒りで顔を赤くした。


「質問していいのは私よ!」


 鏡のナイトはビクッと身体を縮まらせるが、なぎは怯まなかった。


「ごめんなさい! だけど、わたし、心配で! 心配しちゃダメでしたか!?」

「なっ……! なによ」


 紫庵がクイーンに何か言う前に、なぎは大きな声で言っていた。

 面食らったクイーンは、目を白黒させてなぎを見つめた。


「この国にいる間はこの国の常識に従いなよ、メアリー・アン。ここでは、『女王様』は通じないよ。つまり、きみとなぎちゃんは対等。わかった? ついでに僕ともね」


 ニヤニヤ笑いながら勝ち誇ったようなニュアンスも含んだ目で、紫庵はクイーンを見下ろした。


「あんたはいつでも私と対等、いいえ、それどころか侮辱してるわ」


「きみは僕のことは罰せられないからね」


 キーッ! と怒ったクイーンが手を上げるが、手のひらが紫庵の頬を叩く前に、彼の姿は薄くなったように見え、消えた。


「えっ……ええっ!?」


 なぎが驚いて何度も瞬きをするが、紫庵の姿は見えない。


「あいつ、また消えたわね! まったく頭に来るわ!」


 空を切った手を振りながら、クイーンは忌々しそうに辺りを見回した。


「消えた……?」


 呆然と呟いたなぎに目を留めた。


「知らなかったの? あいつは、姿を消してはいつどこに現れるかわからない神出鬼没で厄介なヤツなのよ。昔っからムカついてたわ」


 クイーンは青い瞳を釣り上げる。

 部屋を見渡していた梓がようやく立ち上がり、凛とした様子でなぎを見た。


「なぎ、紅茶館の経営は?」

「あ、はい! 夏の終わり頃からは、やっと黒字になってきました」

「そう。うまくいっているなら良かったわ」


 梓は少し目元を和らげると、店内の方へ向いた。


「紅茶を淹れてくれない?」

「はい」


 おばあちゃん……。

 なにがあったのか、全部聞こう。


 梓の方も説明するつもりでいることは、顔を見ればなぎには伝わった。


 休憩室から店内に入ると、テーブルの上のホットティーが二つ取り残されていたままだった。もう湯気も立っていない。


「紫庵——いえ、アールグレイが淹れてくれたティー・ロワイヤルが残ったままだった。もう冷めちゃってるわ」


「ティー・ロワイヤルですって!」


 嬉々として、クイーンはなぎが片付けようとしたテーブルに駆け寄った。


「おっと、それは僕の分だよ」


 紫庵の声が聞こえたと思うと、突然クイーンの隣に現れ、ティーカップを横取りした。


「きゃっ! なにするのよ!?」

「紫庵!?」


 クイーンとなぎが驚き、同時に声を上げるが、それには構わず、紫庵は悠々と自分のカップをかかげ、紅茶をすすった。


「うん、猫舌にはちょうど良い具合に冷めてる」


 ごくごくと飲み干し、カップをソーサーの上に戻す。


「うん! 美味しく出来てた! それじゃあ、なぎちゃんのために、リゼを探しに行ってくるよ」


 そう言ってウィンクした紫庵はなぎの頬に唇を押し付けると、またしても半透明になっていき、姿を消したのだった。


 驚いて棒のように突っ立っていたなぎは、ハッと我に返った。


「ちょっと紫庵! やっぱり酔っ払ってるじゃないのー!」


 陽気な彼の笑い声だけが、その場に残っていた。




【ティー・ロワイヤル(ブランデー・ティー)】2杯分

茶葉 6g(キャンディ、ニルギリ、ディンブラなど香りにクセがないもの)

熱湯 340cc

角砂糖 2個

ブランデー 10cc


①ポットに茶葉と熱湯を入れ、2分半蒸らしてからカップに注ぐ。

②ブランデーをかけた角砂糖をスプーンに乗せ、火をつけ、アルコールを飛ばす。

③②をカップに入れて混ぜる。

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