第6話 『ありす紅茶館』オープン!

      *


「今までお世話になりました」


 なぎは勤めていた会社で、形式通りの挨拶をして頭を下げていた。


「きみの送別会だが……」


「ああ、いいえ、結構です。わたし一人のために余計な経費など使わず、どうぞ他の予算に回してください」


「いや、でも、それじゃあ……」


「本当に結構ですから」


 なぎの語尾が強くなった。


 あいつの顔なんて、もう見たくもないのよ。

 それから、あんたもね。


「わたし、身内の店を手伝うのに忙しくて抜けられないものですから。申し訳ないです」


 それ以上、課長も勧めるわけにもいかず、決まり文句で別れの言葉を告げた。

 花束を受け取り、同じ制服の同僚の女性達、上司に見送られ、一年間だけ勤めた職場を後にした。


「山根さん、待って!」


 階段まで追いかけてきたのが同僚ならば問題はなかった。

 だが、その声は、最悪なヤツだとすぐにわかった。


「辞めたのは、やっぱり、僕が原因……かな?」


 最悪上司は、困ったように首を傾げて見下ろした。

 高い位置にある良く言えば切れ長の瞳、ゴワゴワの丸まった髪、ふくらみ、垂れた頬、剃り残しのある髭が点々と目に付く。


 なぎの中で、我慢していた何かがとうとうブチ切れた。

 もう恐怖はなかった。


「その彼氏ヅラ、やめてもらえません?」


 いかに分厚い脂肪の壁をも貫く思い切り冷たく刺さる視線で、なぎが返した。

 これまでにない鋭い視線と口調に、男は怪訝そうな顔になる。


「だって、僕たちは――」


「全然オフィスラブなんかじゃありませんし、付き合ってなんかいませんから。わたしが一方的にセクハラされてただけですから!」


「ちょ、ちょっと、声大きいよ!」


「助けて欲しいって言ったのに助けてくれなかった課長にも、事を大袈裟にするなってパワハラされたし!」


 なぎは階段を一段上がり、肥えた男に近付いた。


「ちょっと、ちょっと、落ち着いて!」

「落ち着いてなんかいられないわよ、バカ! 死ねっ!」


 獣のようなうめき声とともに響いた凄まじい重い音に、何事かと社員たちが駆けつけた。


 階段の踊り場には、股間を押さえて蹲る巨体、その頭に数回は叩き付けられたであろう花束、辺りにぶちまかれた花びらと葉、折れた茎は、深刻さとシュールレアリスムが混同していた。


 花束のラッピングに貼り紙があった。


『セクハラ男』


 なぎの姿はなかった。




 これまで我慢していたのがバカみたいだと、帰りの電車の中でなぎは思った。


 やっと仕返し出来た。


 一応、上司だし、仕事がなくなるのも嫌だったから、多少は仕方のないことなのかも知れない、なんて思っていたのが間違いだった。


 狭い場所ですれ違い様に腰を触られても、それが明らかに意識的に感じられても目をつぶっていた。


 何も言わないのはOKだという間違った解釈による無言のセクハラはエスカレートした。

 ついに、なぎが「やめてください」と言うと、「入社して半年もとっくに過ぎてるのに、ずっと彼氏いないでしょ?」と、巨体を揺らしながら豚男はニヤニヤと言い返した。


 だから、「淋しいんじゃないの?」と。


 悔しかった。だが、当時は怖いと思う方が先だった。


 それでも、エレベーターで抱きすくめられた時はさすがに恐怖と憎悪がMAXに達し、親しい女性社員と先輩女性社員に相談し、課長にも打ち明けた。


 真剣に話しても、課長は、「きみから誘うようなことしたんじゃないの?」とからかった。


 耳を疑った。


 社内の女子は同じ制服だし、自分は髪型も化粧も地味な方だから、そんなことはない、と言い返す。


 「ああ、確かに」と、うなずいてから、課長は続けた。


「触られただけでしょ?」


「で、でも、抱きしめられて、身動きができなくて怖かったんです!」


「キスされたり、無理矢理……とまではされてないんだよね?」


 そんなこと、おぞましくて想像したくもない!


「それはそうですけど、そこまでされないと訴えてはいけないんですか?」


 なぎの目が両方とも潤んだ。

 目の前の上司は、眉間に皺を寄せる。


「正直、今、この話を社長に持っていくわけにはいかないんだよね。下手をするとボクまで怒られちゃうでしょ、部下の監督不行き届きだって。定年まであと3年あるからさ、今減給されたり、最悪リストラされたりしたら困るんだよね。独身のきみと違って家族を養わなくちゃならないんだから。この課では他に問題はないし、それくらいきみひとりが黙ってれば穏便に済ませられることだよね? 世の中にはきみよりもっと酷い目に合っても我慢してる人も多いんだからさ、それぐらいで騒ぐのは大人気ないんじゃない? 大人だったらうまくかわせるもんでしょ?」


 顔から血の気が引いていくなぎに、課長は表情を一変させ、低い声になった。


「いいか、独断で社長にまで話を持っていこうなんて、絶対するなよ。仕事を失いたくなかったらな」




 その約束は守った。自分から社長にまでは伝えていない。

 先ほどの貼り紙で訴えたのは、退職した後のことだ。

 自分の中では充分義理を果たし、筋を通したつもりだ。


 あの花束にバラが入っていなかったのが唯一悔やまれる。ケチだから、高価な花より安い花でそれなりにボリュームのある方を注文させたに違いない。

 バラの棘があれば、もっとあいつに痛い思いをさせてやれたのに。


 自分の力では、あんな奴らでもクビには出来ない。なら、せめてささやかな仕返しくらいはさせてもらおうか。

 彼らに傷付けられたわたしの心に比べたら、あんなの全然たいしたことじゃないのだから。


 もういい。これでいい。

 辞められればなんでもいいと思っていた。


      *


「仕返し出来たけど、まだ忘れてない……みたい。ごめんね、皆は悪くないのに……」


 ありすの手が、なぎの背をゆっくり撫でた。


「ナギ、かわいそう。こわかったね」


 途端に、なぎの目から涙があふれた。


「こわかったし、訴えてもわかってくれなかったから。……ありすちゃんだけ……」


 しゃがみ込んだまま、なぎは嗚咽していた。


 わずか七歳の少女の存在が、これほどまでにありがたいとは。

 やはり、紅茶館の店長には、この子は相応ふさわしいのかも知れない。

 そう思えるほど、ありすは不思議な少女に、なぎには感じられた。


「なぎちゃん」


 紫庵のしんみりした声に、そうっと顔を上げる。


「ごめんね、知らなかったよ、そんなこわい思いをしてたなんて。今後は、きみにうっかり触らないように気を付けるから」


 彼の隣では、リゼも気遣うように彼女を見つめている。


「ありがとう。もう、って、なんなのよ」


 涙を手で拭いながら立ち上がると、思わず笑いがこぼれる。

 一瞬、紫庵が黙り、じっとなぎを見てから笑った。


「ああ、でも、触れちゃいけないと思うと余計に触れたくなる!」

「なにっ!?」


 眉をひそめたなぎが後退あとずさり、リゼが庇うように紫庵の前に出る。


「あ、あの、彼は天邪鬼あまのじゃくですが、今のはきっと冗談ですので! 僕も全力で見張るようにしますから! だから、なぎさん……元気出して」


 紅茶色の瞳が、包み込むようにあたたかくなぎを見下ろした。


「……ありがとう」


 なぎがわずかに笑うのを見て、リゼは安堵したように微笑んだ。




「ホントに、開店して大丈夫なのね?」


「大丈夫だよ! オレたちにまかせときなよ!」


 開店を急かす弥月に、なぎは何度も確かめてきた。


「オレたちは、なぎが来る前からこの店をやってたんだぜ」


「だって、半年もブランクがあるんでしょう?」


 その間どうやって食べていけたのかも謎だし。

 今でも、食材とかこの人たちの生活費って、どこから出てるのかしら?


 おばあちゃんが退職金でも払ってあげたのかな?

 そういうことは、おばあちゃんには直接聞けたとしても彼らには聞き辛いし……。


 祖母と連絡が付かない今は、彼らが生きて生活出来ているのならそれでいいと思うことにした。


 レジの操作も練習し、メニューも覚えた。

 当面、なぎの仕事はほぼ会計だ。

 なぎの制服は発注したところで、届くまでは持っている服でしのぐことにする。今は桜色のブラウスに紺色のスカート、エプロンだ。


 水色のワンピースを着ているありすには、リゼが白いエプロンを着せている。


 ロングの金髪に碧い瞳、エプロン。

 まさに、不思議の国のアリス!

 そう思い付いて、なぎは少しわくわくとした。


 チェス板の床にありす、白いコックコートにワインレッドのコックタイとソムリエエプロンのリゼ、そのオレンジ色バージョンの弥月、紫庵のタイとエプロンは紫だ。

 そして、表には出ないが、博士は白衣でブレンド室にこもっている。


 不安もあるが、待ちに待った開店だ。


「開店の時間です」


 リゼが懐中時計を手に、なぎに、そして全員に告げた。


 なぎは深呼吸をした。


「オープンします!」


 アーチ型にガラスの貼られた木の扉を開けると、上の方に取り付けられたベルが涼やかに音を立てた。




「……お客さん、まだ~?」


 待ち疲れた弥月の声が、だら~んと店の中に響いた。


「またあいつらだ!」


 店の外に出ていた紫庵が戻り、舌打ちした。


「はいはい、『港の見える丘ティールーム』はこちらでーす!」

「イケメンなお兄さんが淹れてますよ〜♡ 癒されたい人はこちらへどうぞ~♡」


 黒いゴシック・ロリータ・ファッションで固めた例のツインテール美少女二人が、ローズガーデンの手前から客を誘導していた。


 ローズガーデンのすぐ先の少し奥まったところに、なぎたちの店がある。


 美少女二人組が客をまるで横取りするかのようにも見えるが、祖母の紅茶館は半年も前に閉めている。

 呼び込みの彼女たちにしてみれば単なる習慣であり、今なぎたちの店の客を奪っているつもりはないのかも知れない。


「だったら、うちは長身のイケメンで攻めるわよ。紫庵、リゼさん、お願いしていい?」


「ええっ! ぼくが……ですか!?」

「僕は構わないよ。かわいい女の子いるかなぁ」


 面食らっているリゼの横では、黒髪を後ろで編んだ紫庵がニヤニヤしていた。


「ただし、お年寄りとか主婦に声をかけて。特に紫庵!」


「えーっ! それじゃ、つまんないよ」


「遊んでるんじゃないんだから。いい? あなたが若い子にばっかり声かけてたら、ハタから見たらいかにもナンパよ? お店の信用がなくなるわ。まず、声をかけるメイン・ターゲットは主婦とお年寄り、集団でもカップルでもどっちもよ、わかった?」


 弥月の作ったチラシを二人に手渡す。


「決してナンパっぽくなく、明るく爽やかに、好感のもてる笑顔でね!」


 なぎは急いで店に戻っていった。


「……注文が多いな」


 紫庵が顔をしかめて呟き、リゼが苦笑いになった。


「でも、なぎさん、元気になったみたいで、お店もやる気もありますし、良かったです」


「ああ、そうだな」


 にっこり笑うリゼに、紫庵もニヤッと笑って返した。

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