第22話 帰ったらゆっくり……なんてムリ!

     *


 久しぶりに外に紅茶を飲みに行こうと、青年は、港の見える丘公園に来ていた。

 急坂をわざわざ登るのは嫌で、山下公園の老舗ホテル・ニューグランドを通り、いつもフランス橋を渡っていたが、たまには散歩がてら坂を登るのもいいだろうと思い付いた。


 散歩がてらと言っても、彼の住むところから歩けば四〇分以上かかる。天気も良いし、たまにはイングリッシュローズガーデンでも覗いて、インスピレーションを得ようとも考えていた。


 谷戸坂は急だが、元町から続く石畳が外国風で気に入っている。

 登り切ったところを曲がり、目的のローズガーデンに差し掛かる前で、黒いミニスカートのゴシックな格好に染まった女子二人がしゃしゃり出てきた。


「港の見える丘ティールームはこちらでーす」

「どうぞどうぞ、こちらですよ〜!」


 半ば強引に誘導される。


 名称を『ティールーム』に変更したのだろうか?

 以前来店してから二、三年経っているから、その間に何かしら変わっていても不思議はない。


「いらっしゃいませ」


 店内では、にこやかに黒髪の若い青年が会釈をした。

 客である青年も微笑むと、カウンターに腰掛ける。


 注文したダージリンのポットの蓋からは、ティーバッグの紐と紙が垂れ下がっているのにじっと目を留める。

 ティーバッグを小皿に取り出し、ポットからティーカップに紅茶を注ぎ入れ、香りを楽しんでから一口啜る。


 隣の女性の飲むフレーバーティーの香りに、ふと横を見ると、その奥の女性の持つ透明なポットには、薄めた赤ワインのような色合いのハーブティーが見えた。


 少し考えてから、男は顔を上げた。


「以前、ここら辺にあった紅茶館て、こちらで良かったんでしたっけ?」


 カウンターの青年は、女性なら一目で虜になりそうな、美しく、感じの良い笑顔になった。


「はい。この港の見える丘公園にある紅茶館は、うちだけですよ」


「そうでしたか。じゃあ、僕の記憶違いかな。以前は確か年配の女性が経営していて、茶葉もリーフのまま使ってたと思うんですが……」


 一瞬、カウンターの青年の瞳が真面目になってから、にっこりと微笑んだ。


「そのお店でしたら、閉店しましたよ。半年前に」

「えっ?」


 青年は意外な顔になった。


「……そうですか。……残念です」


 紅茶を飲み終わると、店を出た。


「梓さんの紅茶、美味しかったのに、ホントに残念だなぁ」


 口の中で呟いてから、ふと顔を上げ、正面を見据えた。


「あれ……?」




 ベルの音で、従業員が振り向いた。


「いらっしゃいませ」


 外国人だ。「紅野」というネームプレートからすると日本人とのハーフ?

 やはり、これも違う店だろうか。いや、でも、店の看板には「ありす紅茶館」に「〜港の見える紅茶館〜」と添えてあった。


「あの、こちらは、山根梓さんが経営していた『港の見える紅茶館』でしょうか?」


 目の前の外国人店員は、にこやかに応えた。


「そうですよ」


「ああ、良かった! 半年前に閉店したって聞いたけど、ちゃんと残ってたんですね! それにしても随分様子が変わりましたね」


 白と黒のまるでチェス盤のようなチェック柄の床を眺めてから、赤髪の紅野と、奥から顔を覗かせた長い黒髪を後ろで編んだ外国人店員を交互に見る。


 カウンターに腰掛け、注文したダージリンティーを飲むと、青年は一際晴れやかな表情になった。


「これです! これが飲みたかったんです!」


 嬉しそうにもう一口啜ってから、少し心配した表情になった。


「ところで、梓さんは……?」


 ワインレッドのカフェエプロンをした紅野が答える。


「引退してお孫さんに経営を譲って、しばらく旅行中です」

「そうでしたか」


 青年は安心したように微笑み、紅茶を口にした。


     *


「ハナちゃん、本当にお世話になりました」


 宿泊費を渡し、なぎは頭を下げた。


「もう帰っちゃうなんて、さびしいさぁ。あんまり案内出来なくてごめんね」


「ううん、そんなことないわ。沖縄の美味しい食べ物を教えてもらえたし、新しいメニューのヒントももらえたわ。ハナちゃんが横浜に来ることがあったら、是非お礼させて」


「ありがとう〜! いつになるかわからないけど行ってみたいさ〜!」


「いつでも大丈夫よ!」

 

 ハナは嬉しそうに笑い、なぎも笑顔で別れた。


 しゅんとして黙っている弥月とありすを連れて土産を買い、夜になってから公園に行くと、ありすの持つ懐中時計の蓋を開けた。


 来た時と同じように、勢いよく移り変る景色のトンネルを抜けたと思うと、見覚えのあるイギリス調の部屋が見え、柔らかい布を通り抜けるような、身体にまとわりつく感覚がなくなると、暖炉の上に立ち上がっていた。


 鏡を通り抜けたと、なぎは理解した。


 店の奥の休憩室として使っている部屋だ。

 弥月が飛び降り、ありすを抱いて下ろす。


「あら? まだお店やってるのかしら?」


 店の明かりが部屋の扉の向こうから漏れ、話し声が聞こえる方に、なぎは顔を向けた。


『久しぶりね』


 カクテルグラスをテーブルに運んだ彼の首を片手で引き寄せ、ハグをしながら頬に軽く口づけ、女は英語で話しかけた。


『ああ』


 長い黒髪を一本の三つ編みにまとめた男の方も英語で返し、軽く女の肩を抱き、頬に口づけを返す。


『もう国に帰っちゃったかと思った』

『僕がキミに何も言わずに去るわけないだろ』


 男は、改めて正面から女を見つめ直した。


 途端に、「ハナちゃん〜!」「リゼー」と、なぎの背後から泣き声が響いた。

 と、同時に——


「なにやってんのー!?」


 声にびっくりした男が振り返る。


「な、なぎちゃん!?」


 紫庵が、なぎと、わあわあ泣きだした弥月と、しくしく泣きながら目をこするありすを見て目を白黒させた。


「も、もう帰ってきたんだ?」


「ええ。あんまり宿泊代かけたくなくてね」


 愛想笑いを必死に浮かべる紫庵に平淡な声で答えながら、なぎは店内を見回した。


 テーブルには、飲んだ形跡のあるワイングラスやロックグラス、カクテルグラスが置かれている。


「閉店時間とっくに過ぎてるのに、なんでまだお店開けてるの? わたしがいない隙にお店でイチャイチャするなんて不謹慎な! 紫庵がそんな公私混同する人だとは思わなかったわ!」


 黒い長髪を編み上げた紫庵と、金髪女性は唖然とした。


「ご、誤解だよ、彼女は前からのお客さんで……! 半年前にアズサがお店を閉めて以来、会ってなくてさ」

「彼女?」

「いや、友達」

「と、友達と、そんなに親しく……?」

「常連だったし、久しぶりなんだし、ハグくらいするでしょ?」


 紫庵が説明すると、女性も頷いた。


 ……そんなにぎゅーっと抱き合ってたわけじゃないし、外国人にしてみれば、ほっぺにちゅーも挨拶の範囲か。


「そうだったの。ああ、びっくりした」

「それはこっちの方だよ」


 紫庵が呆れ顔になるが、すぐに笑顔になった。


「もしかしてヤキモチ妬いてた? そっかぁ! なぎちゃんも、やっと恋愛に目覚めてくれたんだね!」


「そんなんじゃないわよ! 不謹慎だって言ってるの! 無駄にお店開けてたらその分の電気代とかもかかるんだからね!」


 「ああ〜、はいはい」と紫庵はヘラヘラ笑いながら、面倒そうに目を逸らした。


「お客様の前でお見苦しいことしてしまってごめんなさい! 今後も是非またいらしてくださいね!」


 取り繕ったなぎは深々頭を下げ、女性客は笑って帰っていった。


「ところで、なんで弥月たちは泣いてんのさ?」


「みーくんはともかく、ありすちゃんが先だわ。リゼさんはどこに?」


 紫庵が顎で厨房の奥を指す。

 ちょうどブレンド室から出て来たリゼが、笑顔になった。


「ああ、なぎさん、お帰りなさい」

「ただいま」


 なぎは少しだけ恥ずかしそうに会釈をしてから、泣いているありすの手を引いて連れて行った。


「リゼー」

「ありす、どうしました?」

「……えほんー」

「はいはい。じゃあ、二階に行きましょう」

「すみません、わたしが絵本を忘れていったばかりに……」

「あはは、大丈夫ですよ」


 なぎに微笑んで応えると、ありすを軽々片腕に乗せ、リゼは階段を登っていった。


 寝かしつけてからリゼが店内に戻って来る頃、洗ったグラスを棚に戻した紫庵も弥月のいるテーブルに着き、なぎが切り出した。


「営業時間、延ばしたの?」


「ああ、はい。試しに夜はバーをやってみることにしたんです」


 あまりにもあっさりと答えたリゼに、なぎは驚いて瞬きをした。


「バー!? なんでまた!?」


「いやあ、夕方からバーにしてみたら、お客さんそのまま残ってくれてさー、ついでにお酒も注文してくれてさー」


 紫庵も上機嫌に答える。

 リゼは、なぎの顔色をうかがうように、おそるおそる言った。


「あ、あの、夜も営業しないと黒字にならないかなーと思って、試しのつもりでやってみたんですが、週末だったからか意外とお客さんも残って喜んでくれて……ダメでした?」


 パティシエの定番ユニフォームである白いコックコートに、ワインレッドのコックタイとカフェエプロンのリゼと、紫のタイとエプロンの紫庵を改めて眺めるが、どう見てもバーの店員というよりパティシエかカフェの店員だ。


「そもそも、あなたたち、カクテルとか作れたの?」


「だって、ワインならそのまま出せばいいし、ウイスキーもブランデーもそのままとか氷入れて出せばいいし、カクテルだってしょっちゅう作ってたよ」


 ニヤニヤと紫庵が答え、リゼが言い添えた。


「僕たち、カクテルは適当には作ったことはありましたが、実は少し教えてもらったんです、お客さんに」


「お客さん?」


 なぎが呆れた声で聞き返す。


「どこの誰かもわからないお客さんに教えてもらったのを真に受けて、……思いつきでバーをやってたの?」


「アズサがお店をやっていた時の常連さんみたいでしたよ。何年も通ってたって。バーで働いてるそうで」


 リゼは、もらった名刺をなぎに見せた。


「紅茶を使ったカクテルを教わったんです。なぎさんも飲んでみますか?」

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