第2話 ナイトティー

『小さいワニの子は、キラキラと光るしっぽを使って、豊かなナイルの川の水を、金色のうろこにふりかけました。

 ワニの子は楽しそうに、川の景色を見ていました。

 そして、何も知らない小さな魚たちを、鋭い爪の生えた手でかき集め、優しく口へと運びました』


 本は、そっと閉じられた。


 懐中時計で時間を確かめ、眠りについた少女の寝顔をもう一度確認してから、青年は振り返った。


「すみません。ありすの寝る時間だったもので」

「い、いいえ。こっちこそごめんなさい、変な時間に」


 なぎの手荷物を運び、ありすを二階へ連れて行った青年が微笑む。

 白地にストライプのシャツ、サスペンダー付きの茶系のスラックス。白い肌に整った優しい顔立ち、さらりとした赤茶色の髪、角度によっては紅く見える紅茶色の瞳。


 穏やかな美声で本を読み聞かせる彼と、布団から顔をのぞかせて、じっと聞いていた少女という構図が、つい絵になるなどと見入ってしまっていたなぎは、にこやかな彼の笑顔につられて自分も笑顔になるが、我に返った。


 祖母のベッドで、ありすは、すーすー眠っている。

 少女ではあっても、彼女が起きていてくれた時の方が安心出来た。


 ストーカーと化していた会社の上司の不気味さにはもう限界だと、思わずアパートを飛び出してきてしまったなぎだが、ありすが寝てしまった今、この紅茶館にいるのは、長身の見知らぬ外国人の男が四人。

 得体の知れない彼らがそこにいるだけでも、息苦しくなってくる。


「あのー」


 呼びかけられて、びくっと、なぎは隣を見上げた。


「とりあえず、紅茶をれましょうか? それからお話をお聞きしましょうか?」


 ありすを寝かしつけていた赤茶髪の白人男性が微笑み、店の方へと促した。


 この人のことは、ありすちゃんは「リゼ」って呼んでた。

 リゼも紅茶の名前なのかな?


「アッサム博士、ナイトティーのブレンドをお願いします」

「いいだろう」


 店の調理場に入ると、ぼうぼうに広がった白髪頭の不気味な博士は、勝手を知ったように棚から、福引きで使うような形をした白い小さな陶磁器を取り出した。

 同時に、リゼが茶葉の缶を、やはり勝手を知ったように集めて持って来た。


「キームン60%、アッサム30%、ニルギリ10%……」


 ぶつぶつ言いながら片眼鏡を挟んだ目をぎょろっと動かし、博士はそれぞれの茶葉をティー・キャディ・スプーンでスケールに乗せ、慎重に計ってから、福引きの玉を詰める部分に入れて蓋をしめ、福引きの機械を回す要領でくるくると回した。


 さらさらと、茶葉が磁器の中をこする音がする。


 そのブレンディング・マシンから小皿に移した中身を受け取り、リゼがポットに入れ、やかんで沸かしていた湯を注いだ。


 ささやかな小花模様のティーカップとソーサーが、テーブルに並んだ。


「ナイトティーになります。どうぞ」


 カップを手にすると、事前にカップを温めていたとわかる。


「いい香り……なんだか落ち着く」


 器に注がれたミルクティーを、息を吹きかけ、冷ましながら口にする。


「……美味しい! いつも自分で淹れてるティーバッグと全然違う!」


 怖い思いをした直後に飲んだその紅茶に、なぎは救われた思いがしていた。


 この人たちは、あいつとは違う!


 やっと安心出来たというそのホッとした笑顔に、リゼが「それは良かったです」と微笑んでから続けた。


「博士の配合が良いんですよ」


「エキゾチックで濃厚なスモーキーフレーバーのキームンを多めに、渋みとコクのあるアッサム、まろやかでクセのないニルギリを少々入れてバランスを整えたのじゃ」


 博士! わたしは今、人は見た目じゃないって、はっきりわかりました!

 こわがってごめんなさい!


 なぎはキラキラと目を輝かせ、心の中でそう言ってから「すごい! 絶妙なバランスですね!」と口に出した。


「ブレンドだけじゃないぜ。紅茶の美味さには淹れ方も関係あるんだぜ」


 褐色の肌の、男たちの中では一番幼く見える金髪少年が、ウキウキと声を弾ませた。


「ま、同じことは僕でも出来るけどね、子猫ちゃん」


 椅子で足を組んだ、黒い長髪でうっすら褐色の肌の青年も笑う。


 どっちかがダージリンで、どっちかがアールグレイだったような……?


「あの、今、おばあちゃんとは連絡が取れない状態ですし、あなたがたのことを詳しく聞いていなかったものですから、良かったら教えてくれませんか?」


「人のことを尋ねるには、まずは自分のことから先に話すもんだぜ」


 また金髪の少年が元気な声で言った。


「あら? おばあちゃんからわたしのことを聞いてなかったの?」


 という質問には答えず、褐色の少年は紅茶を飲んで「美味い!」と膝を叩いた。


「うん、まずまずだね」


 なぎを子猫ちゃん呼ばわりした長髪の男もカップを傾け、頷いている。


「えっと、改めまして、わたしはここの紅茶館を経営していた山根アズサの孫で、山根なぎと言います。二一歳です。東京で仕事をしていましたが、来週で辞めて、これから紅茶館のお手伝いをしようと思っていた矢先に、祖母がイギリスに行ってしまって……。祖母が帰って来るまで紅茶館を一人で経営するのは……初心者には難し過ぎると思うので、なんとかアルバイトとかでつないで待つとか、これからいろいろ考えようかと。でも、せめてその間も紅茶の勉強はしておきたいと思います」


 紅茶を淹れたリゼは、始終にこやかに頷いていた。

 なぎの話を聞いていそうなのは彼だけだった。


「これに合うお菓子は何かなぁ。なあ、もうビスケットは切れちゃった?」

「食べ物関連は残ってないようだねぇ。アズサが処分しちゃったみたいだ」

「え~っ、じゃあ、今日はお菓子は作れないよ~!」

「夜にお菓子なんか美容に良くないんだから、作るなよ」


 ダージリンだかアールグレイだかが騒がしい。

 博士はお茶の缶をひとつひとつ開けて、香りを確かめるのに夢中だ。


 なんなの?


「あの! 聞いてます? そこのキミ、引越し手伝ってくれるって言ってくれたけど……ああ、冗談なんだったら別にいいけど……、そもそも、ありすちゃんは祖母と知り合いでこの紅茶館を手伝ってくれていたそうですが、あなたがたは……?」


「オレたちも、アズサと一緒にこのお店をやってたんだぜー」


「えっ、ホント!?」


 この子たちも従業員だったの!?


 褐色金髪男子と皆を頼もしそうに、なぎは笑顔で見直した。


「なんだ! だったら早く言ってくれたらよかったのに! じゃ、じゃあ、この紅茶館の再開とかは考えないんですか?」


「オレはずっとお店をやっていきたかったけど、アズサが疲れたからもう閉めるって」


「でもね、子猫ちゃん、きみがお店をやりたいっていう気があるんだったら手伝ってやってほしいって、アズサには頼まれたよ」


「いつ!? おばあちゃんから連絡来たんですか!?」


「アズサが出発した日に、ありすにね」


 割り込んでそう話す長い黒髪で長身の男の顔を見上げ、なぎの表情がパッと明るくなった。


「こんなにたくさん従業員さんたちがいてくれたのね! あ、じゃあ、皆さん、わたしともお店を一緒にやってくれるんですか?」


「ちゃんとこれまで通り、ここに住まわせてくれるならね」


 なぎは、パチパチッと瞬きをした。


……?」


「すぐ裏の洋館だよ」


「そこの裏手の洋館ですか? 住民がいたんなら、なんでおばあちゃんは放っておいて出かけてしまったのかしら?」


 そこで、なぎの頭は浅ましく回転した。


「裏に住んでたってことは、あれも祖母の持ち物なので、家賃とか入れてくれてたのかしら?」


 答えようとする元気な金髪少年の前に黒髪の男がしゃしゃり出て、長い髪を搔き上げた。


「それがね、子猫ちゃん、払ってはいなかったんだよ」


「えーっ!?」


「お店を手伝ってたから、差し引きゼロでね」


「そ、そうだったの!?」


「それは……」


 何かを言おうと踏み出したリゼの胸の前で遮るように腕を伸ばし、黒髪の男は切れ長の瞳を活かしたどことなく色気を含んだ笑顔で言い放った。


「だから、ノーギャラで働いてあげるから、家賃も相殺そうさいしてね」


 少しの間沈黙して、なぎは顔を上げた。


「要するに、居候いそうろうですか?」


「そ。きみだって、まだ僕たちにお給料は払えないでしょ?」


 にっこりと、黒髪男は美しい笑顔でなぎを見つめた。


 横目で見つめ返すなぎに、遮っていた腕をどけたリゼが慌てて言った。


「ちゃんと家事はぼくたちがやりますから!」

「ちゃんと家事はリゼがやるから」


 「ん?」という顔で、なぎとリゼは、リゼと同時にそう言った黒髪男を見た。

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