* 冬の紅茶 *

第8章 鏡の国

第41話 赤の城へ

 ありすと弥月の三人で鏡を通って旅行した時とは違う感覚だと、なぎは思った。

 紅茶館休憩室の鏡を通ったのは、ほんの一瞬であった。本当に鏡一枚を隔てて存在している世界なのだと思えた。


 鏡を越えて足を踏み入れた、休憩室に似た洋風の部屋。その部屋のドアを開けると、色とりどりの花が植えられた庭に出る。祖母の話と同じ風景だ。


 その向こうはチェス盤のように見える色分けされた草原で、さらに奥には森が見えた。


『まあ! 雑草だわ!』

『どこから来たのかしら?』

『近付かないでちょうだい!』


 ふと聞こえてきた声に驚くと、風もないところで揺れている花々が、騒めいているのだと気が付いた。


「ああ、そいつらのことは気にしなくていいから」


 紫庵がなぎの手を引き、反対側は弥月が手を繋いだまま進む。


「あっ、近道!」

「ウサギ穴か」


 弥月が鞄を持った手で指差す方を見ても、なぎには、一本の木の根元に長い草が生えているようにしか見えなかった。


「こっちだぜ」


 強く手を引っ張られ、ダッシュする弥月に合わせ、慌ててなぎも方向転換するが、ついて行くのがやっとだ。


「そっちはウサギ専用ルートだけど、今は地上を行くより安全だ。僕はを使うから、なぎちゃん、また後で会おう」


 なぎの手を離した紫庵は手を振ると、ふわりと浮かんだように見え、周りの景色に溶け込んでいくように、長身のその姿は見えなくなった。


 なぎには不思議なことばかりだが、いちいち何かを尋ねている場合ではないと思った途端、弥月に強く引っ張られた。


「ちょっと、みーくん! 乱暴しない……きゃーっ!」


 穴に落ちた! と、咄嗟に解釈した。

 真っ暗な中を落下していったと思うと、ランプシェードの光のような薄明るいオレンジ色の空間に入り込んだ。


 ふんわりと浮かんでいる。


 なぎも、弥月も、弥月の持つちょっとした荷物も。

 浮かびながらも、ゆっくりと落下しているのだった。


「不思議の国のアリスの世界にちょっと似てる? まったく同じではなさそうだけど」

「え? なぎ、なんか言った?」

「ううん。ホントにもう鏡の国に来てるんだね」


 改めて弥月を見ると、はねた金色の髪のサイドから、明るい茶色をしたウサギの耳が垂れているのに気がついた。

 いつの間にか服装までが、茶系チェックのハーフパンツと、揃いの丈の短いジャケットに変化し、白いふわふわな丸い尾も付いている。


 なぎの方は変わらず、大きめのフリルで襟元が飾られたラッフル・カラーのブラウスに淡い色のデニムパンツのままだ。わけのわからない格好になっていなくて良かったと、そこだけは安心できた。


「こっちこっち!」


 何もない、ただ草だけが生える地面にふわりと降り立つと、一定方向だけがオレンジ色の光に照らされた薄暗い道を、弥月が再び走り出した。


「みーくん、そんなに走らなくても、……わたし、息が切れ……」


 言っている最中に、弥月が突然止まった。


 垂れていた耳が両方ともピンと立ち、前、横……と何かを聞き取ろうとゆっくり動き、耳と違う方に金色の瞳も動く。


 ロップイヤーでも耳を立てることがあるのは、三日月の日にウサギ化した弥月を見ていてわかってはいたが、その時よりも緊張感が感じられ、思わずなぎは口を噤んでいた。


「……バンダースナッチは行ったみたいだ」

「……物凄く速く動くっていう、例の動物?」

「動物なんてもんじゃないぜ、怪物だよ! 地上を走ってたみたいだ。こっちルート通って正解だったな!」


 バンダースナッチがどんなものかはわからないが、博士たちの話から凶暴であることだけは覚えていた。


 一本道をそのまま、ただひたすら駆け抜けていく。


 リゼさん、大丈夫かな……。

 バンダースナッチの爪には毒があるって、博士が言ってた。


 博士の調合した万能薬はポケットに少量と、あとは弥月の持つバッグに入っている。


「見えた!」


 弥月の声にハッと我に返る。


「城の地下ゲートだぜ」


 そこには、真鍮のドアノブが付いた木で出来た重厚な扉だけが、地面につくかつかないくらいの位置で浮かんでいた。


 なぎが心の準備をする間もなく弥月はバッグをなぎに渡すと、迷いもなく、勢いよくドアを開けた。


 一見して物置に見える、箒や塵取り、煉瓦造りの床と壁に囲まれた部屋だ。


「無事合流!」


 フッと現れた紫庵は、一緒に来た時とは違う白いフリルの付いたシャツとリボンタイ姿であった。

 腕組みをしていた手を解くと、弥月とハイタッチをした。

 息を切らしているなぎには、とてもそこまでの余裕はない。


「リゼさんは? 無事なの?」

「こっちだよ」


 ぼうっと照らされたオレンジ色の壁付きライトを頼りに、石造りの階段を登っていく。


「ここには、バンダースナッチっていうのは来ないの?」


 なぎのすぐ前を行く紫庵が振り返った。


「ここには来ない。赤の国で一番安全なところは赤の城の中だからね」

「もうお城に着いてたの!?」

「そうだぜ、近道だって言っただろ?」


 後ろから、弥月が飛び跳ねながら階段を上がり、危なっかしい。

 弥月の動きは、にいた時よりもさらに奇妙だ。


 階段を登りきると、広い回廊に出た。


 白い柱が定期的に並び、壁には花や草の蔓をモチーフにした装飾が見られる。

 ロココ調のようなパステルカラーの色彩や曲線が施された甘いお姫様テイストではなく、金色と直線をアクセントとするデザインが目に付く。

 ネオクラシックというスタイルが近かった。


 天井には一見宗教画風であったが、よく見ると、貴族のような服装をした動物たちや人間のお茶会の絵が描かれていた。


 西洋的な建築だということくらいしかなぎには見当がつかず、じっくりと見る時間もなかったが、幼い頃に見た写真を思い出した。その時写っていた祖母の留学先であったイギリスの学校の一部分や、未だにたまに訪れることもある友人宅にも似たモチーフが見られたように思う。


 廊下が赤と白のチェック柄の床に切り替わり、ひたすら進んでいくと、いくつかの部屋を越してから曲がる。

 

「ここが、リゼの部屋だよ」


 真鍮の取っ手に手をかけ、白い木製の扉を紫庵が押し開けた。


 回廊と同じように、いかにも西洋の城というイメージの部屋であった。個人の部屋というより応接の間と思えるような、大人数入れそうな広さだと、なぎは思った。

 焦げ茶色の猫足と淡いモスグリーン生地に花柄のソファ、壁には暖炉もある。


 ふと、部屋の入り口のすぐ脇にある、木で出来た広めの小動物向けのハウスに視線を落とした。


「リゼは、通常寝る時はそこにあるウサギ小屋にいるけど、今は向こうの部屋のベッドにいる」


 間に合ったんだわ!


 不安を追い払い、リゼに会える期待に後押しされたようになぎは駆け出し、紫庵の指差した、奥の白い木の扉を開けた。


 意外にも騒がしい。

 ベッドの周りには、人だかりが出来ていた。


「次はアタシの番よ!」

「いいじゃないの、もう少しくらい!」

「あんたたち、どきなさいよ!」


「次はアタシって言ってるでしょう!」

「イヤよ! やっと順番が回ってきたんだから!」

「はい、リゼ様、あ〜ん♡」


「いえ、あの、ホントに自分で食べられますから……いたた」


「あら、傷が痛むんですの? だったら、なおさら遠慮しなくていいんですのよ〜♡」

「ワタシが作ったスープも飲んで〜!」


「あ、はい。後でいただきますから」


 メイド服を着た、ウサギの耳と丸い尾のある女子たちが群がっていた。


 甲高い声が飛び交う中、ベッドには上半身裸のリゼが座り、タオルで肩から腕を拭く者もいれば、別の女子も背に回って同じようにして拭き、正面では、木のボールによそおったオートミールのようにも見えるドロドロのものを木のスプーンで掬い、わざわざ口に運ぶのをリゼが断っている——そんな光景を前にして、呆然と立ち尽くすなぎと、紫庵、弥月であった。


「……なにこれ……バニーガールのハーレム……?」


 なぎの口から、ぽろっと言葉が漏れた。


「あ……」


 気が付いたリゼと、三人の目が合う。


「……なぎさん……」


 リゼの顔から微笑みが消え、手元にあった白いシャツの片腕を通して羽織りながら言った。


「なぜ来たんです?」


 責めるような口調に、なぎの肩がビクッと固まった。


 来ちゃいけなかったんだ……


 そう解釈すると、なぎの瞳が潤んでいった。


「……リゼさんが怪我をしたって聞いて、居ても立っても居られなくて博士から薬をもらってきたんですけど、……お邪魔しました」


「あっ、待って……!」


 駆け出したなぎの後を追おうとして、リゼがベッドから落ちた。


 途端に、メイドたちが叫び声を上げ、駆け寄る。

 驚いたなぎも振り返った。

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