第40話 鏡の国へ

「だめよ、なぎを鏡の国には行かせないわ」


 強い口調で、梓は言い放った。


 紅茶館の昼の部が終わり、ユウは帰った後だった。紅茶館でのバーは急遽休みにし、皆は話し合いをしていた。


 静まり返った洋館のリビングでは、ありすとなぎ、クイーンは無言でソファに座り、ダイニングでは弥月も珍しく姿勢を正して椅子に座り、博士は英字新聞を逆さまではなく、正しい向きで読みながら紅茶を啜っていた。


 腕を組んで壁に寄りかかっていた紫庵は、ソファに座る梓のキリッとした瞳を見下ろした。


「リゼは、ルークの後ろから来ていたバンダースナッチに気付いた。それで、きみとメアリー・アンを守るため、こっちに。その時、バンダースナッチにやられて傷を負ったんだよ。その彼を見捨てるのか?」


 メアリー・アンは叫び出しそうになる口を両手で押さえた。梓は、遣る瀬無い表情で下を向く。


「あの……、バンダースナッチって……?」


 おそるおそる、なぎが皆を見渡し、誰にともなく訊いた。


「簡単に言うと、素早く動ける怪物じゃ、何者よりも」


 答えた博士を、なぎは見た。

 博士は新聞から目を離さず、冷静な表情だ。


「リゼやグルジアは、最も速く動けるはずなのじゃ」

「そうね。でも、私とメアリー・アンを逃す方を優先させた。それで、怪我を……」


 梓は額に手を当てた。


「なぜ、そんなものが現れたの!?」


 メアリーが恐怖に怯えた声で、紫庵に訊く。


「白のビショップは過去に戻って何かをしたらしいと以前リゼが言っていただろ? 僕も一緒に詳しく探ったところによると、その時、手懐てなずけたかも知れないんだ、ジャブジャブ鳥のヒナを」


「ジャブジャブ鳥……?」


 再び、なぎが博士を見る。


「やけっぱちになった凶悪なトリじゃ。奴らも素早い。バンダースナッチほどではないが」


「やけっぱち……?」


 なぎには、博士の説明は意味不明だった。


「ビショップは、グルジアの『時を行き来出来る時計』を盗み、白のクイーンの持っていたロッドを奪った。モンスターを大人しくもさせられれば、攻撃を仕向けたりだとか操ることの出来るものなんだ。クイーンが幼児退行してしまったのも、それを取り上げたせいらしいよ。白のキングはライオンとユニコーンに見張られて街中にいる。赤のキングは城で眠ったままだ」


 なぎには相変わらず意味不明であったが、紫庵の言葉には、ホッとメアリー・アンは胸を撫で下ろした。


「キングは無事なのね」


「リゼは赤の城に僕が連れ戻した。なぎちゃんはリゼに付いてやって欲しい。それだけでいい。リゼの力も必要なんだ。すべてはリゼが治ってからだ。それから、弥月、お前も来るんだ」


「えっ! オレ!?」


 ビクッと弥月が背筋を伸ばし、自分を指差した。


「赤のキングが寝言で言っていた。チェスの兵士たちには出来ないことを、の僕たちでやり遂げるんだ、ってね」


「なんなの? あんたたちで一体何をやらなくちゃならないの?」


 メアリー・アンが怯えた目を紫庵に向けた。


「ジャバウォックを倒すんだよ」


 静かに答えた紫庵に目が釘付けになったメアリーは、次の瞬間よろよろと床に座りこみ、梓の膝に顔を埋めた。


「あんな化け物を……! 無茶だわ! 騎士ではないあんた達じゃ……どう考えても、ネコとウサギには無理よ!」


 泣き出すメアリー・アンの髪を、梓が慰めるように撫でる。


「ジャバウォックとは、我々の三〜五倍はあろうドラゴンじゃ」

「ドラゴン!?」


 博士の説明に青くなったなぎも、そばにいたありすに袖を引っ張られると、ありすを抱え、答えを求めるよう紫庵と弥月を見つめた。


「倒せる可能性はある」


 ニヤッと紫庵が笑ってみせると、博士の目がみるみるうちに大きくギョロッと見開かれた。


「ヴォーパル・ソードか!」

「そ!」


 メアリーが顔を上げる。


「それって……!」

「そう。赤の城に代々伝わる剣、つまり赤のキングの剣だよ」

「そもそも剣なんかあんた達に使えるの?」


「おいおい、忘れたのかよメアリー・アン。王立学院では男子は剣術の授業もあったんだぜ? 僕もリゼも弥月もそのくらいは習ってるよ」

「騎士の訓練レベルじゃなくて、手解き程度でしょ?」

「いや、もうちょっとは教わったよ」


 紫庵は誤魔化ごまかすように笑った。




「これは、ラベンダーのオイルをベースにティートゥリー、その他色々加えて作った万能薬じゃ。バンダースナッチの爪の先には毒素があるのでな。これに赤の城にあるジャムとバターを加えれば、殺菌作用、抗ウィルス作用も倍増する。それをリゼの傷に塗ってやるのじゃ」


 半信半疑ながらも、なぎは博士に尋ねた。


「どのジャムとバターを混ぜたらいいか……」

「ダージリンが見ればわかる」

「そ、そうなの? みーくんが知ってるのね?」


 博士からコルクで栓をした瓶を受け取り、弥月を見る。


「え? ああ、うん、見ればわかる……と思うぜ」


 なんとも頼りない返事だが、なぎの決心は固かった。


「なぎ、どうしても行くの?」


 暖炉の上の鏡の前で、梓がじっと見つめる。

 なぎは、ふっと力を抜いた笑顔になった。


「わたしが戦うわけじゃないんだから大丈夫よ」

「向こうでの怪我はこちらとは違うのよ」

「そうなの? でも、わたし、こっちにいても気が気じゃないから、とにかくリゼさんの無事を確かめたい。そばに付いて怪我の手当てもしてあげたい」


 なぎは頭を下げた。


「ごめんなさい、おばあちゃん。わたしがリゼさんの役に立てるものなら役に立ちたいの。そうしないといられないの。だから、紅茶館はしばらくお休みします。自分からやることにしたのに、ごめんなさい」


 目尻を拭うなぎの手を見つめると、梓は心配そうな表情のまま口を開いた。


「わかったわ。今はあなたのしたいようにすればいい。余計なお世話だけどこれだけは言っておくわ。リゼの孤独は簡単には拭いきれない。彼は自分のこととなると、どこか諦めてしまっているところがあるわ。彼が戦わなくてはならないのだとすれば、それが最も彼を危険に追いやることにもなり兼ねないって、覚えておいて」


 涙を指で払いながら、なぎは祖母を見据えた。


「だとしたら、なおさら彼を放っておくわけにはいかないわ。わたしじゃ力不足だとわかっていても」


 凛とした顔になると、なぎはもう振り返らず、紫庵と弥月が暖炉の上の鏡に手をかざした。


 波打った表面に触れると、水面の波紋のように輪が広がる。

 水のように冷たくはない。


 ドキドキしながら、紫庵と弥月に引っ張られた手が、一番に通過する。

 空気が変わったような違和感は一瞬だった。


 なぎの後ろ姿を梓は見つめ、ありすが手を振った。


「気を付けなさいよ」


 メアリー・アンの声が聞こえたと同時に、なぎの身体は完全に鏡の世界へと入り込んだ。

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