第32話 楊貴妃と葡萄と一時帰国

 重い足取りで洋館に戻った紫庵は、ダイニングのドアを開けた。

 テーブルに着いているのはありすだけで、弥月と博士はリビングでテレビを見てわいわい言い合っていた。


「あれ? リゼは?」


 紫庵が見回すと、ありすが、紅茶館と通じる中庭とは反対の正面玄関の方を指差した。


「さっきベルが鳴ったけどインターホンに誰も映らないから、なぎが不気味がって、リゼと一緒に見に行った」


     *


 洋館の玄関では、ドアを開けたリゼの後ろからなぎも恐る恐る覗くと、白いウサギがぴょんと入って来た。


 白い毛に、赤い目。

 リゼさんがウサギ化した時みたいだけど、目はもっと紅茶に近い色だったわ。


 などと、なぎが思っていると、リゼはしゃがんでウサギの腹の下に手を入れて支えながらゆっくりと抱き上げ、「どうしたの?」と話しかけた。


 なぎがじっと見守る中、ウサギは鼻をヒクヒクさせ、リゼは頷きながらそれを見ている。


「えっ、父さんが!?」


 リゼの声色が変わり、何事かと、なぎもリゼの背と白ウサギとを見つめた。


「やっぱりか」


 背後から聞こえたその声に、二人は振り返った。

 紫庵が壁に寄りかかり、腕を組んでいた。


「鏡の国でさらに異変が起きたらしい。メアリー・アンもアズサも迷いの森で消えた。グルジアも数日誰も見かけていないそうだよ」


「おばあちゃんが!?」


 なぎが全身を強張らせると、紫庵が肩に手を置いた。

 怖がらせないためだとなぎにはわかったが、紫庵の顔はどことなく深刻だ。

 そんな紫庵に向けたリゼの目は、冷静だった。


「知らせてくれてありがとう」


 ウサギはリゼが庭に放すと跳ねていき、半透明になったと思うと消えた。

 なぎは信じられずにウサギの消えたところを目を凝らして見るが、まったく見えなかった。


「アールグレイ、なぎさん」


 紫庵となぎは、ウサギを見送っていたリゼの背を見つめた。


 リゼが振り返る。

 決意の現れた瞳に、二人は緊張して彼の言葉を待った。


「ぼく、父さんと皆を探しに行きます」




 休憩室の暖炉の前に集まったなぎ、紫庵、ありす、弥月と博士に、リゼはいつもの笑顔を向けた。


「ちょっと様子を見てきます。クイーンとアズサが行方不明になる前に、父グルジアも行方不明になってるそうです。ぼくがいいだけなので、簡単なことです。すぐに戻りますよ」


 リゼは中腰になって、ありすの目の高さに視線を合わせた。

 ありすは普段通りの表情のないガラス玉のような目で、わずかに顔を上げ、リゼを見ている。


「大丈夫ですよ、心配しなくて。クイーンもアズサも必ず助けます。ぼくの留守中は、なぎさんを困らせないようにね」


「わかってる」


「いい子だね」


 リゼは、ありすの額に軽く口づけた。


「紫庵、弥月、博士も、なぎさんのことくれぐれも頼みますよ。皆でなぎさんをしっかりサポートして下さい。ぼくがいない間の経理は……」


「大丈夫です。わたしがちゃんとやりますから。それより、ありすちゃんのお母様と、リゼさんのお父様、わたしのおばあちゃんの消息を……」


「わかったら、すぐに知らせます」


 リゼが時計を取り出す。


「時間になりました」


 懐中時計の蓋を、カチッと閉めた。


「行ってきます」


「……行ってらっしゃい。よろしくお願いします」


 暖炉の上の鏡の表面が波打ち始める。


 なぎは口を開きかけて、つぐんだ。


「すぐに戻りますから大丈夫」


 心配そうななぎをしばらく見つめていたリゼはにっこり笑うと暖炉に登り、てのひらをそっと当てて鏡の中へと入り込んだ。


 背をかがめ、足の先まで完全に鏡の中に入ると、持っていた靴を履いて、リゼはなぎたちに微笑み、手を振ると姿を消した。


 これっきり会えないなんてことはないよね……?


 リゼの消えた鏡の向こうの花畑と、その奥に見えている林がぼやけていき、元通りの休憩室に戻った後も、なぎはずっと鏡を見つめていた。


「あたし、戻らなくていいの?」


「ありすは気にするな。なかなか戻らないようなら、僕が様子を見に行くから」


 紫庵はウィンクしてみせると、見上げているありすの頭にポンと手を乗せた。




 翌朝、洋館のダイニングへ朝食を取りに、ありすを連れてやってきたなぎは、弥月の作るハムエッグとサラダのプレートを並べてから、トーストしたパンにバターを塗っていた。


「おばあちゃん、大丈夫かなぁ……」


 ため息をつく。


「ありすちゃんのママに、リゼさんのお父さん、わたしのおばあちゃん……鏡の国で大変なことが起きてるっていうのに、わたし、紅茶館なんかやってる場合なのかしら?」


 蜂蜜と生姜を入れたミルクティーを、紫庵がなぎの前に置き、笑った。


「じゃあ、紅茶館閉めて、なぎちゃん、ニートになるの?」

「う……」

「こういった食事の材料とか光熱費だってかかるのに、どうやって生計立てるの?」

「紫庵、意外と現実的」

「なぎちゃんも、現実を見ていればいいんだよ」

「……働きます」

「そうそう!」


 にっこりと、紫庵が笑った。


     *


「おはよう」


 朝食後、なぎたちが店の掃除をしていると、ユウがやってきた。


「今日はバーの営業時間前に用事が出来ちゃって、紫庵くんにチェスを教えてもらう時間が取れなくてね」


「あら、紫庵たら、ユウさんにチェスを教えてるの?」


 なぎが呼びかけ、厨房から出てきた紫庵が笑った。


「そうだよ。なぎちゃんも一緒にどう? じゃあ、ユウさん、チェスは明日にしようか?」


「いやいや、カクテルの代わりに差し入れ持ってきたから。今ここでちらっと教えてもらえたらと思って」


 ユウは、葡萄を3パックと、瓶をテーブルに置いた。


「わぁ、美味しそうな巨峰! こんなにあると、カクテル一杯よりお高いんじゃないですか?」


「ああ、大丈夫、大丈夫。うちのオーナーがたくさん持ってきて、お店では使い切れない分だから。それと、うちの店から近い赤レンガ倉庫で買った紅茶『秋ぶどうティー』もどうぞ」


 赤レンガ柄のパッケージの四角い缶を開けると、ジューシーな葡萄の香りがする。


「美味しそうですね! ありがとうございます! こちらはシロップ?」


 なぎが見た瓶には、ライチの絵が描いてある。


「ライチシロップ。前に紫庵くんが欲しいって言ってたのを思い出してさ。ついでがあったから手に入れておいたよ」


 紫庵が瓶を手に取り、瞳を輝かせて見回した。


「そう! これ欲しかったんだよ! これで『楊貴妃のアイスティー』が作れる! サンキュー!」


「楊貴妃って、世界三大美女の?」


「そうそう!」


 紫庵はなぎに答えると、うっとりとした目になり、シロップの瓶を見つめ、浮かれていた。


「ちなみに、カクテルの『楊貴妃』では、ライチ・リキュールと桂花陳酒を使うよ」


 喜んでもらえて嬉しいとばかりに、ユウも笑顔になっている。

 なぎがユウを見た。


「桂花陳酒って、コンビニとかでたまに見かける中国酒ですか?」


「金木犀の花(桂花)を漬け込んだ、中国の白ワインなんだよ」


「ユウさん、今度カクテルの方の『楊貴妃』の作り方教えて!」


 ますます瞳を輝かせ、顔中を輝かせる紫庵を見上げ、なぎは、やっぱり美女が好きなんだな、とくすくす笑った。


「白ワインもあるし、今日のおすすめメニューのアイスティーは、巨峰ティーと楊貴妃に決まりだね!」


「じゃあ、オレ、巨峰の種取って半分に切っておくぜー!」


 早速、弥月が踊るようにして巨峰のパックを持ち上げ、危なっかしげに運んでいったので、なぎは「みーくん、落とさないように気を付けて!」とオロオロ慌てた。


「おい、飾り用は切らなくていいんだからな」

「わかってるぜー!」


 厨房から弥月の返事が聞こえる。


「半分に切った葡萄を少し潰して、茶葉と一緒に淹れるんだ。それにガムシロップと白ワインをちょっと追加するだけ。美味しいよ」


 なぎとユウに説明すると、紫庵が再び厨房に顔を向けた。 


「博士、ニルギリとダージリン、キャンディあたりの茶葉は大丈夫?」


 厨房にいたアッサム博士が、白衣姿で顔をのぞかせた。


「あるぞ」


「それなら、葡萄ティーはすぐ作れるな。じゃあ、キームンは? なかったら、アールグレイかラプサンスーチョン(正山小種)でも」


「キームンは、アズサが店を閉めた時から切らしておる」


「ああ、そうだったね。だから今までも使わずに来たんだった。ラプサンスーチョンは?」


「十月に収穫されたばかりだから、ちょうどいい。今はリゼがいないから現地に買い付けは無理だが、中華街にも売ってるだろ」


「上等のキームンより安く済むしね! よし、なぎちゃん! 後で買ってきて。ついでにローズマリーも!」


「ちょ、ちょっと待ってよ。わたし、そのラプなんとかっていうお茶、知らないんだけど!」


「福建省で作ってる、松の木で燻して独特な香りを付けたお茶だよ。お茶屋さんで聞けばすぐにわかるよ」


 ユウがポンと手を打った。


「スモーキーフレーバー! ウィスキーみたいだね! へぇー、どんな香りのお茶なんだろう!」


「最上級のキームンは蘭の上品な香りで、アールグレイはベルガモットの香り。その二つとは違うラプサンスーチョンで淹れた『楊貴妃』はよりオリエンタルな感じで、僕は好きだけどな!」


 なぎは、祖母アズサの置いていった分厚い紅茶の本を持ってきてページをめくり、探し当てた。紫庵の言うようにかなり独特なようだが、渋みや苦みは少なく、まろやかでコクがあるという。


 ふと、本の説明に目が留まる。

 『西洋の上流階級に特に愛されてきた』と。


 ……紫庵て、上流階級だったのかしら? クイーンのことも呼び捨てだったし、女王相手に随分な言い方だったわ。


 試してみてもいいが、キームンがない今はアールグレイを使った方が無難にも思えていた。


「アールグレイ・バージョンと両方、後で試飲させて」


 なぎは本を閉じた。


「中華街のお茶屋さんは十時か十一時に開くから、お勧めで『楊貴妃』をお出しするのは明日にしましょう。それまでは葡萄ティーだけで」


「了解!」


 紫庵は敬礼し、ウィンクしてから言った。


「それじゃあ、チェスのレッスンに入ろうか」




【楊貴妃(アイスティー)】2杯分

茶葉6g(キームン、アールグレイ、ラプサンスーチョン)

熱湯170cc

ライチシロップ40cc

炭酸水40cc

ローズマリー5cm


①ポットに茶葉とローズマリーを入れ、熱湯を注いで2分半蒸らす。(2倍の濃さのホットティーを作る)

②グラスにライチシロップを入れ、グラスの口元まで氷を入れる。

③①を6分目まで注ぎ、炭酸水を8分目まで足す。



【楊貴妃(カクテル)】度数12度くらい

ライチ・リキュール(ディタ) 10ml

桂花陳酒 30ml

ブルー・キュラソー 1tsp(ティースプーン)

グレープフルーツ・ジュース 20ml


シェイカーに材料と氷を入れてシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。



【葡萄ティー】

茶葉6g(ニルギリ、ダージリン、キャンディ)

熱湯170cc

巨峰14個(8個は飾り用)

ガムシロップ40cc

白ワイン10cc


①巨峰は半分に切り、ポットに茶葉と、切った巨峰を少し指で潰しながら入れる。

②熱湯を注いで2分半蒸らす。(2倍の濃さのホットティーを作る)

③グラスにガムシロップを入れ、氷と飾りの巨峰をグラスの口元まで交互に入れ、白ワインを注ぐ。

④③の8分目まで①の紅茶を注ぐ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る