第46話 窓の月とアップル・カクテル
*
紫庵たちとキングの部屋で打ち合わせをし終えたリゼが部屋に戻ると、なぎがティーセットとグラスをテーブルに並べているところだった。
「お帰りなさい。ありすちゃんは、さっきお部屋で絵本を読んで寝たところです。今日は昼間ちょっと怖い思いをしたせいでなかなか寝付けなかったみたいで、三冊くらい読んじゃいましたけど」
リゼの隣の部屋がありすの部屋だ。
笑ったなぎの顔を、リゼはしばらく見つめてから安心した。
「対策会議が長引いちゃってすみません。ありすのこと、ありがとうございました!」
「遅くまでお疲れ様です。さっき調理室でカルヴァドスを見つけたんです。そこにあった紅茶の本を見て作ってみました」
ワイングラスに氷と一緒に注がれた、りんごの酒カルヴァドス入りの紅茶カクテルには、カモミールのりんごのような甘酸っぱい香りも備わっている。
「『ミセス・アップル』っていうんですって。カルヴァドス好きなうちのおばあちゃんみたい」
「ホントですね! アズサみたいです!」
リゼが笑い、なぎからオレンジ色のカクテルの入れられたグラスを受け取った。
「美味しいです!」
「嬉しい! 良かった」
「甘酸っぱいけれど、紅茶で後口がさっぱりですね。半分くらい飲んだら、炭酸水を入れるとシャキッとして美味しいですよ。甘みが減るので、甘みが欲しい時はシロップを足してもいいです」
「わ〜、美味しそう! 今度やってみます!」
「紅茶を淹れるのも、紅茶のカクテルを作るのも、なぎさん、上手になられましたね! 紅茶館でぼくたちがいない間、頑張ってたんだなってよくわかります」
「ホントですか? でも、これ、カモミールがちょっと多かったかなと思ったんですけど」
「多めでもぼくは大丈夫です。カルヴァドスとカモミールの香りがいいですね。この香りを嗅ぐと、思わず干しりんごが食べたくなります」
「リゼさん、ウサギの時、りんご好きですよね」
「はい」
二人は顔を見合わせて笑った。
閉まったガラス窓の向こうには、紺色の空が広がる。
部屋の明かりを点けなくても明るい。昼間の邪悪な鳥の出現が考えられないほどの静けさだ。
ここでは月は大きめなのかしら? と、不思議な思いでなぎは月を眺めていた。月の模様もなぎのいた世界と似たように思う。
山々は黒々として見えるが、大きな月が明るく照らす山の手前の木々は青い。
リゼは窓の近くに歩いていくと、しばらく外を眺めてから口を開いた。
「明日、紫庵と一緒に、国境近くにいる白のナイトと落ち合って、白の国の様子を見てきます。ビショップやルークたちが行くと目立つし、ものものしく思われるでしょう。ぼくたち二人ならこっそり行けるので」
「そうですか……。あの、危険はないですか?」
「大丈夫ですよ。あちらの状況を見に行って、話し合ってくるだけですから」
「それなら良かった……」
外は夜も危険だと話していたリゼは、バルコニーには出ずに月を窓越しに見ている。
なぎもテーブルにカクテルを置いてから、隣に並んだ。
心なしか、リゼの遠くを見据えているような目には、僅かな緊張感が見て取れる。
スズメバチ色の凶悪な鳥を思い起こすとなぎにも恐怖感が蘇ってくるが、今は気分を変えようと、何も気付かない様子で微笑みかけた。
「服、やっぱり、その方が似合いますよ」
リゼは鏡の国での通常の服に着替えていた。詰襟の上着を羽織り、フリルの付いたシャツにリボンタイ。貴族的なイメージだと、なぎには思える。
ここで本来着ていた服にするようなぎが強く勧めたため、リゼの方は渋々着替えて会議に出ていたのだった。
「会議とか、ましてや明日隣国を訪問するなら、やっぱりきちんとした格好じゃないと」
「せっかく、なぎさんが作ってくれた服があるのに」
リゼが少しむくれると、なぎは笑った。
「そんな顔するんですね」
「え?」
「なんかここではいろんなリゼさんが見られて、新鮮です」
無意識だったリゼは戸惑った。
「すみません。古巣だからって、ついワガママが出てたんでしょうか?」
「そんなことないですよ。ちょっとカワイイって思えるし」
「えー」
「あれ? カワイイって言われるの、イヤだったんですか? ウサギの時なんて特にカワイイから、いっぱい『カワイイ!』って言っちゃいましたけど」
くすくす笑うなぎに、リゼは少し心外だという顔になった。
「ウサギの時なら構いませんけど、……ヒト型の時にカワイイって言われると……頼りないみたいで」
「そんなことないです。あんまり男男した人よりも、その方がわたしは好きです」
「そうなんですか? 考えられないな」
にっこり笑うなぎを、不思議そうに見つめてから考え込む。
それを一層可笑しそうに、なぎは見ていた。
「こっちに来てからの方がリゼさんがより男らしくて頼もしいです。それに、……少しは近付けたのかな、とも思えるんですけど、……気のせい?」
目が合うと、テーブルに空のグラスを置いてから、リゼはなぎの肩を抱き寄せた。
しばらく無言で、二人は窓の外の月を眺めていた。
「わたし、ちょっと考えてたんです。リゼさんの生い立ちを知って、同情してるだけなのかなって。好きだって思ってるのも、実はわたしの思い違いなのか、それとも本当に好きなのか、よく考えたんです」
リゼは黙って耳を傾けている。
「でも、勘違いだけでこの国に来るなんて、そんな非現実的な行動ができるほどわたしは行動的じゃないんです。嫌な思いしててもすぐに会社を辞められなかったし、紅茶館のことだって、おばあちゃんをアテにしてたから自分が経営するなんて思ってもみなかったし。なのに、こんなところにまで来て、危険なモンスターもいるって聞いてたのに、怪我したリゼさんが心配で無事を確かめたい、単にそれしか考えてなかったの。それだけでこんなところにまで来る性格だったかしら? って。今までの自分からはとても考えられないことをしてるんです」
リゼを見上げると、自然に言葉が出ていた。
「だから、わたし、リゼさんのこと……好きなんだって、ちゃんと確信持てました」
「……ぼくが時々ウサギの姿になっても?」
リゼの紅茶色の瞳に吸い込まれるように見入ると、唇が勝手に動いていた。
「むしろ、わたしがウサギだったら良かったのに、って思いました。そうしたら、もっと……」
なぎは言葉に詰まった。
じっと見つめているリゼの瞳を前にすると、それ以上何も言えなくなった。
「そんなこと言ってくれるんですか」
カモミールが優しくふんわりと香った時、近付いた紅茶色の紅い瞳に耐え切れず、なぎはぎゅっと目を閉じた。
肩にリゼの手が添えられ、軽く唇が触れた。
柔らかい。そして、あたたかい——
固まっているなぎの身体をやさしく抱え直してから、そっと口づけ直した。
なぎにはとても長い時間が経ったように思え、その間、心臓だけが激しく鳴り響き、自分の身に起きているすべてのことが信じられないでいた。
目を開くと、少しだけ顔を離したリゼが、照れたように笑った。
「後になってしまいましたが、……ぼくも、好きです、なぎさんが。今まで出会った誰よりも正面からぼくを受け止めてくれた。ぼくのことを全部わかった上で選んでくれた」
心臓の音が頭にまで響いているように思えて、ただただリゼの顔を見つめ、言葉を発するどころではない。
「心が広くてやさしくて、ありすにもやさしくて、一生懸命で、可愛くて。いざという時は頼りになる。なぎさんがそばにいてくれると安心します」
ポロポロと頬を涙がこぼれ落ちていくのをなぎが手で拭うが、追いつかない。
「ど、どうしたんです!? やっぱりイヤでしたか!?」
リゼが途端に慌て出すと、泣きながらも思わず笑いがこぼれた。
「違います、嬉しくて。リゼさんがわたしのことどう思ってるのかわからなくて、単におばあちゃんの孫だからやさしくしてくれるんだって思ってたから」
「そんな……! 初めはそうでしたが、それだけじゃないですよ」
リゼがムキになったように、はっきりと言った。
「それに、わたし、……ちゃんと嬉しいって思えたことも、嬉しいんです。男の人に触れられるのはダメだって思ってたから、こんな日が来るなんて、信じられなくて……、こんな風に幸せに感じられるなんて……考えたこともなかった」
「……イヤじゃないなら良かった」
大きく息を吐き出しながら、リゼが言った。
「リゼさんだからです。他の人じゃダメです」
「ぼくも、なぎさんだけです。こんなにあたたかくて、愛おしい気持ちになれたのは」
引き合うように唇が重なった。
恥ずかしさもあったが、カモミールと紅茶の香りを心地良く感じられる。
なぎには、リゼが自分を気遣って、それ以上踏み込もうとしないやさしい口づけをしてくれているのだと思え、ますます感動が募っていった。
白く大きい手が柔らかくセミロングの髪を撫で、細い肩を包み込み、もう一つの白い手はなぎの手を握る。
なぎの華奢な手も片方、リゼの背にぎこちなくそうっと伸ばされていった。
大きなガラス窓から差し込む月は、明るくゆったりと、やさしい灯りで二人の影を包んでいた。
【ミセス・アップル】2杯分
茶葉 6g(ニルギリ、キャンディ、ディンブラなど香りにクセがないもの)
熱湯 170cc
氷 適量
カモミール(ジャーマン)2g
カルヴァドス 20cc
ガムシロップ 40cc
①ポットに茶葉とカモミールを入れ、熱湯を注ぎ、2分半蒸らす。
②グラスにカルヴァドスとガムシロップを入れ、混ぜる。
③②の口元まで一杯に氷を入れ、①を八分目まで注ぐ。
※リゼのアレンジでは、炭酸水を入れる。甘みが欲しい場合はガムシロップを好みで足しても美味しい。
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