第1章 港の見える紅茶館

第1話 閉店した紅茶館

 木目の床に、アンティーク調の木の椅子とテーブル、インテリアとなっている暖炉。

 アーチ型に途中の壁をくり抜かれたデザインの見慣れた店内を通り越し、休憩室として使われていた奥の部屋でさえ店内のようにイギリス調を思わせる花柄の壁紙、ソファ、テーブル、少し離れたところにはチェス板の置かれたサイドテーブル、壁際には暖炉まである。

 暖炉の上の飾り棚マントルピースには置き時計と、燭台、小物入れが置いてあり、その上には全身がすっぽり入れそうなほどの、天井近くまである巨大な鏡があった。 


 その部屋の暖炉も使われていない。店のものと同じく、今ではインテリアで、冬場はヒーターを出して使っていた。


 寒い。


 コートを羽織ったまま、なぎはヒーターを探した。

 いえ、その前に、電気、ガス、水道は……?


 なぎの思った通り、それらは止められていた。

 スマートフォンと予備の充電式バッテリーもいつも持ち歩いているので、その心配はないにしても、大きなため息しか出ない。


 あの嫌な上司とはあと一ヶ月でお別れだと思うと清々するが、人生の再スタートを切るつもりでいたのに、すっかり出端を挫かれた思いだ。


 幸い、まだ東京のアパートは引き払っていないし、別の仕事を探した方がいいのかも知れない。

 一年間でおばあちゃんが戻るなら、その間はアルバイトでつなぐとか?


 そう考えていた時、ふともう一つあるサイドテーブルの上に乗っているものに目が留まった。


「あ、紅茶の本て、これ?」


 祖母の言っていた本のことを思い出した。

 ハリー・ポッター等でよく見かける魔法書、あるいは『スパイダーウィッグ家の謎』の妖精図鑑のように、大きく重量のありそうな、分厚く古い本であった。


 洋書のようなシックで高級感のある布張りの本に興味を引かれ、革張りの肘掛け椅子に腰掛けると、本の表紙を開いた。

 黄ばんだ紙に目次が印刷されている。


「ちゃんと日本語だわ。やっぱり紅茶って好きだな……」


 あのあかい透明感のある水色すいしょくに、香り。

 会社の帰りに寄ったカフェでも、決まって紅茶を頼んでたし、おばあちゃんが淹れてくれる紅茶は特に美味しく思えた。


 思わず微笑が浮かび、描かれている水色すいしょくを眺めてから次のページをめくる。

 紅茶の歴史、紅茶の産地をざっと眺めてから、紅茶の出て来る物語のページで止まる。


「『ハリー・ポッター』……そう言えば、『アズカバンの囚人』で紅茶で占うシーンがあったっけ。『くまのプーさん』にも紅茶って出てくるんだぁ? 『ピーターラビット』シリーズも、それから、『不思議の国のアリス』も。まさに、お茶会とかの場面があったものね。なんでもない日のパーティーとか……」


 くすっと笑顔になり、本の文字を追っていた。




 どのくらいの時間が経っただろうか。


「寝てるみたい」


 子供のような声がする。


「起こさないであげましょう」


 男の人のやさしい声だ。


 いつの間にか、うとうとしていたのか、本に俯せていたなぎが顔を上げた。


「あっ、起きた!」


 元気のいい男の子の声だった。


「おはよう、子猫ちゃんキティ


 耳元でささやく甘い声と肩に手を添えられ、ぼうっと横を見ると、見知らぬ外国人の青年が微笑んでいた。


「……わっ! 誰っ!?」


 驚いて立ち上がったなぎが、椅子から離れようとしてテーブルの足に引っかかった。


「危ないよ」


 突然、小さな手に背を支えられ、転ばずに済んだ。

 おそるおそる振り返ると、金髪碧眼の少女が両手で支えていた。


 え? この子も外国人……?

 でも、日本語?


「あ、ありがとう。あなたこそ大丈夫だった? ……って、あなたたちは誰なの!? なんでここに!? そういえば電気いてる……?」


「さっき電気の人が来て点けてもらった。ガスも水道も大丈夫」


 少女が表情のない顔で応えた。


「そ、そうだったの……?」


 気付かないほど、そんなに深く眠ってしまったのだろうか?


「わたし、随分深く眠っていたみたいでごめんなさい。助かったわ。ありがとう。それで、あなたたちは……?」


「あたしは、ありす。この紅茶館のアズサとは友達」

「ああ! あなたが、ありすさん? おばあちゃんが言ってたわ、紅茶館を手伝ってくれてた……って……?」


 その応えにホッと安心したのも束の間、言いながら、なぎはまじまじと目の前の女の子を見る。


 手伝ってたにしては、まだ幼いわよね?

 十歳くらい?

 いや、もっと下?


 ありすに見入っていると、横から、ぬっと老人が進み出た。


 思わず、なぎは小さく声を上げた。


 ぼうぼうに左右に広がった白髪と、片眼鏡をかけた、背の曲がった老人が笑顔を向けた。

 それが笑顔だとわかるまでに数秒かかった。


「大丈夫。この人はアッサム博士。笑顔がこわくても気にしないで」


「え、ええ……」


 なぎが、きょろきょろと周りを見渡してみる。


 この部屋には、あと三人の男性がいた。

 なぎを子猫ちゃん呼ばわりした背の高い青年は、ソファに掛けて足を組むと、長い黒髪の毛先を指でくるくるともてあそび、ニヤニヤ笑いながら流し目を送っている。


「その人はアールグレイ。その奥がダージリン、暖炉のそばに立ってるのがリゼ」


 つらつらとありすが説明するが、なぎには誰が誰だかわからなかった。

 全員が日本人ではない、外国人のような顔立ちだ。


「……皆さん、紅茶の名前……?」


 おそるおそる一人一人の顔を見回す。


「あなたたちは、もしかして…………なんてことは……」


 茫然として目を見開いたまま、思わず呟いた。


「はあ? 何言ってんの? まだ寝ボケてんの? それともアタマがイカレてんの?」


 中央にいた、褐色の肌に金色の髪の少年が、ぴょんと跳ねてケラケラ笑った。


「アズサは今、あたしたちの国の異変を調査して、改善するために出かけたの。あたしの国の隣の国を視察してから」


 ありすはひとりがけのソファに座ってから、切り出した。

 その座った姿には気品が感じられる。


 この子たちの国の隣がイギリス? でも、イギリスって島国。隣の国っていっても……?


「おばあちゃんはイギリスのどこに行ったの? 確か、友達がロンドンにいるって聞いたことがあるけど」

「そう。まさにロンドンのそのお友達のところ」

「あなたたちの国の異変を調査って……、まさか、おばあちゃん、実はスパイだったとか!?」

「安心して、アズサはスパイでもなんでもないし、から大丈夫」

「そ、そう……」

「ナギは、ここに引っ越すの?」


 これまで無表情だったありすの青い瞳は、わずかに微笑んだようだった。

 なんでわたしの名前を……ああ、そうか。おばあちゃんが連絡した時に教えたんだわ。


「アパートの更新もちょうどだから、来月末で会社を辞めたら翌月の更新はしないで、こっちでおばあちゃんと一緒に住もうって、だいぶ前に口約束だけどしていたの。裏の洋館の部屋も余ってるって言ってたし。そんなに荷物もないけどね」


「アズサにも頼まれてるから、皆で引っ越しも手伝うわ」

「ええっ! そんなの悪いわ」

「大丈夫だぜ! 手伝ってやるよ! 東京なんだろ?」


 金髪の少年が飛び跳ねた。

 その笑顔は、いやいやではない、むしろ手伝いたい、面白そうだから、とでも言っているようだ。


紅茶館ここの上のアズサの部屋を使っていいって。クローゼットも半分余ってるって」


「あ、ありがとう。で、でも、わたし、おばあちゃんもいないのに、いきなりお店なんて……。おばあちゃんが帰ってくるまで一年間、どこかでアルバイトでもしてつないだ方がいいのかも」


 でも、せっかく手伝ってくれるって言ってくれてるのに……。

 それに、他のところでアルバイトなんかして、そこでもまた嫌な上司がいないとは限らないし……。

 おばあちゃんと一緒にお店をやってた人たちなら、そんなことはないはず。

 でも……。 


「……今日は、もうそろそろ帰るわ。明日仕事だから。来月どうするかはじっくり考えてから、またちゃんとお返事するわ」


「わかったわ。あたしたち携帯持ってないから、何かあったらお店に電話して」


 そういえば、おばあちゃんは携帯解約してたし、どうやってこの子たちと、いつの間に連絡を取ったのかしら?


 帰りがけに、ありすはなぎに写真立てほどの鏡を渡した。


「これをお部屋に置いておいて。引っ越す日まで」


 アンティークな木製の縁にはめ込まれた鏡を手にして、なぎは思わず「素敵」と見回した。




 もらった鏡を、玄関の靴箱の上に置いた。


 なんか不思議な人たちだったなぁ。

 特に、ありすちゃん。

 見た目は子供なのに、雰囲気は大人びてるっていうか、貫禄かんろくがあるっていうか、王者の風格があるっていうか。


 ……わたし、何考えてるんだろ?

 でも、おばあちゃんがあの子に頼んだのもなんとなくわかる。

 あの子は、ただの子じゃなくて、何かもっと……。


 あの子と紅茶館をやってみてもいいのかも……?

 いやいや! いきなり経営だなんて、いくらなんでもムリ!

 ……でも……


 よく考えよう。


 スマートフォンのアラームをセットすると、なぎはベッドにもぐり込み、目を閉じた。


 いざという時は紅茶館という逃げ場がある。

 それだけでも心に余裕が生まれ、あと一ヶ月を乗り切れる。

 そんな風に心強く思えた。




 それから三週間ほど、職場では何事もなく過ごせた。

 同僚たちと出来るだけ一緒に行動していたことで安心出来た。

 

 あと一週間。

 来週いっぱいで辞められる。


 同僚と一緒に乗った帰りの電車の中で、彼女が降りた後だった。

 多少いたところで、見覚えのあるシルエットになぎはぎょっとした。


「やあ、山根さん、奇遇だね。同じ電車だったとは」


 巨体を揺らしながら近づいてきた、不潔そうな頭髪に垂れ下がった頬の男は笑ってみせる。


 付けられてた!


 同僚と離れた隙をうかがっていたのだ。


「ねえ、会社を辞めるって本当?」


 気持ちの悪くなるような猫なで声に、なぎはなるべく離れながらうなずいた。


「そう……。やっぱり、マズいよね、オフィスラブはバレると厄介だもんね。大っぴらになる前に転職するのもアリだよね。外の方が会いやすくなるし」


 オフィスラブ……!?


 なぎの全身に悪寒が走った。


「わ、わたし、ここで降ります。じゃ!」


「あれ? ここは最寄り駅じゃなかったよね?」


 ニヤニヤと男が笑う。


 知ってる!?

 わたしの住んでるとこを!?

 辞めるって知ってから、付けて来るようになってたの!?


 なぎは、引越しの踏ん切りがついた。

 もう我慢できない!

 一刻も早く引っ越したい!


 改札を出て、走り出した。

 別の電車に乗り換え、バスを使って家に戻る。


 アパートの内鍵を閉め、チェーンをかけると、すぐにスマートフォンをタップした。


「ありすちゃん? 今からそっちに行っていい?」


 身の回りのものを簡単に詰め込むと、しっかりと鍵をかけ、あの男が待ち伏せているかも知れないため再びバスに乗り、いつもと違う駅から横浜方面へ向かった。


 翌日から一週間、なぎは有給休暇を使い、休んだ。本当は、そういうことは周りに迷惑をかけたくなくてしたくなかったが、もうあの男には会いたくなかった。

 事情を知る同僚や先輩女子にも謝りのLINEを送った。



【登場物語】


『ハリー・ポッター』シリーズ J.K.ローリング著

『スパイダーウィッグ家の謎』 ホリー・ブラック著

『くまのプーさん』 A.A.ミルン著

『ピーター・ラビット』シリーズ ビアトリクス・ポター著

『不思議の国のアリス』 ルイス・キャロル著

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