ありす紅茶館でお茶をどうぞ♪【本編】

かがみ透

ありす紅茶館でお茶をどうぞ♪

プロローグ

プロローグ

 電車をみなとみらい線に乗り換え、終点「元町・中華街駅」に着くと、エレベーターで出口まで上る。

 扉が開くと、寒気が流れ込み、首元のマフラーを押さえ、観光スポット「港の見える丘公園」を目指して歩き出した。

 ブーツのかかとがコツコツと足早な音を立てる。


 改札を出てエレベーターに乗り、アメリカ山公園口から出れば急坂を登らずに港の見える丘公園に着ける。

 石畳の道を急ぎ足で進み、横浜気象台と、道路の向こう側にあるゲーテ座を通り過ぎて信号を渡る。


 右手のローズガーデンを越え、奥に見えてきた白い建物を目指す。

 イギリス風の洋館だ。白い壁にくすんだ赤煉瓦色をした屋根、モスグリーンよりも若干青味の強い窓枠。


 半分以上がアーチ型の黒いアイアンワーク飾りのあるガラス付きのアンティークな木製のドア。

 紅茶館にはclosedのプレートがかかっていたが、鍵は開いていた。


「間に合ったわね」


 祖母の山根あずさは、緩くウェーブのかかった銀髪に翡翠の飾りを留め、上品なフリルのブラウスの上に臙脂えんじ色をしたベルベットのジャケットにシックな冬物のコートを羽織はおりながら、早歩きで来て少々顔が上気している孫のなぎを見た。


「おばあちゃん、出かけちゃうの?」

「ちょっとイギリスにね」

「イギリス!?」


 なぎは目を見張り、近所のコンビニにでも行くかのように言った祖母を見つめた。

 祖母にとっては学生時代に留学したところでもあり、向こうの友人とのやりとりも続いている。なぎが考えるよりは身近な国であるのかも知れない。


「……そ、そっか。旅行に行くとこだったんだね。じゃあ、帰ってくるまで待ってるよ。いつ戻るの?」


「一年くらいはかかると思うわ」


 ますますなぎは驚いた。


「ちょっと待って。じゃあ、紅茶館は……!?」


 梓は、ガラガラとスーツケースを引いて歩き出す。


「もう閉めたのよ」

「ええっ!?」


 なぎの悲痛な叫びがただの驚きでなかったことに、梓はいぶかし気な顔で、立ち留まった。


「わたし、来月いっぱいで会社を辞めようと思ってるの」

「ええ、そう言っていたわね」

「その後はおばあちゃんの紅茶館でバイトしたいって言ったよね? そのことでいろいろ相談しようと思ってたんだけど、ここ数日おばあちゃんのLINEに送っても既読がついてないし、電話しても『現在使われてない』って。だから心配で」

「ごめんなさいね。急な用事なの。一年もを留守にするから解約したのよ」

「こっち? でも、スマホならイギリスに行っても使えるじゃない?」

では使わないから」


 なぎには、祖母が何を言っているのか不明瞭だった。


「わたし、辞める理由は言えなかったけど、実は……会社の上司にセクハラされて、相談した課長には『言うな』ってパワハラされて……」


 悔しさで涙がにじむ。

 同情的な目になった梓が、「可哀想に」と言いながら、自分よりも高いなぎの頭を肩に抱き寄せ、背を撫でた。


「あなたが来るまで紅茶館を開けていられなくて、悪かったと思っているわ。でも、私は行かなくてはならないの」


「だから、なんで!?」


「急用が出来たのよ」


「どんな急用なの?」


 梓は懐中時計を取り出し、時間を確認すると蓋を閉めた。

 それから、子犬のようにすがる瞳で訴える孫に容赦なく言った。


「悪いけど、もう時間なの」

「じゃ、じゃあ、空港まで送るから!」


 それさえも断った梓は、なぎが通ってきたばかりの道を行き、駅に向かう。なぎは梓のスーツケースをゴロゴロと引きずりながらついていく。

 梓と話せたのは、みなとみらい線『元町・中華街駅』の改札を通り、地下四階——なぎたちの使ったアメリカ公園口からすると地下五階にあたる駅のホームに電車が来るまでの十五分間ほどだけだ。

 祖母は、いくつも連なった鍵の束をなぎに渡した。


「来年の確定申告の頃には帰れると思うから。それまでになんとかやっていけたら、紅茶館をあなたに譲ってもいいわ」


「ちょっと待って、わたし何も知らないのに……紅茶の種類もこれから覚えようと思ってたくらいだからよく知らないし、ちゃんとした紅茶の淹れ方ももちろんわからないし、ましてや、お店の経営なんて出来るわけないし!」


「私も最初はなにもわからなかった。父は亡くなっていて、ひとりで経営していた母も突然亡くなって、お店を継がなくてはならなくなって。昔、ちょっとだけ留学した時に紅茶に興味を持っていたから、なんとかやってみようと思った」


 そうよ、おばあちゃんなら学生の頃からお店を手伝っていたから、今のわたしほど何もかもが初めてって状況じゃなかったはず。


「困った時は、お店の奥の休憩室にある紅茶の本で勉強なさい。大概それで乗り切れるから。後は、に頼んでおくから」


「な、なんのこと?」


 その時、電車が出発するアナウンスが流れた。始発であるから車内で話していたなぎは、離れがたそうに、仕方なくホームに戻った。

 絶望的な表情のなぎを気遣うように、梓は少し笑ってみせた。


「心配いらないわ。あの子たちは私を手伝ってくれたから、あなたの力にもなってくれるはず」


 駅の入場料を支払って再び紅茶館へと向かうなぎの足取りは重かった。


 セクハラをされていたとは情けなくて親にも言えないでいたが、おばあちゃんならきっとわかってくれて、実家にも帰りにくかったら少しゆっくりして行きなさい、とでも言ってくれる、そう思っていた。


 なぎが中学生の頃から、少しずつ両親とは考えも感覚も違ってきたように思えていた。

 なぎの意見をいつも打ち砕く二人には、考えていることを伝えることも面倒に思うようになった。

 時々メッセージでやり取りしていた祖母の方が気持ちをわかってくれるように思えていた。


 母親が実家のある栃木県の土地を継ぐことになり、母の昔からの友人や知り合いも多く、物価も安いことで、なぎが高校を卒業したら引っ越す話になったのをれ幸いと、なぎだけ東京の住み慣れていた町の近くに残り、短大とその後は職場に通っていた。

 東京寄りではある母親の実家からは父親もなぎも仕事に通える距離ではあったが、なぎは栃木とは反対方向の祖母のいる横浜から離れたくはなかったのが大きかった。


 祖母の経営する紅茶館は、子供の頃から行く度に素敵だと思っていた。

 こんなお店を開いているおばあちゃんのことも大好きだった。

 入社して数ヶ月した頃、セクハラに合ったことは言えなくても仕事を辞めたいと話したことはあった。その時、辞めたらおばあちゃんの紅茶館を手伝いたいと言ったら「それは嬉しいわね」と笑ってくれた。


 仕事を辞めて紅茶館を手伝うことには、両親はあまりいい顔をしなかった。観光地の自営業よりも会社という組織に入っていた方が安心だ、と。

 両親に反対される前に仕事先を決めておけば文句は言われまい、と思っていたなぎは紅茶館で手伝うことを祖母に再確認したかった。


 だが、頼みの綱だった祖母からは、表情には現れていなかったにしても、何か緊迫した感じが伝わってきた。


 おばあちゃん、前から冷静だったけど、あんなに塩対応じゃなかったし。


 何かトラブルを抱えてるのだとしたら、自分はこんなところにいていいのだろうか?

 やはり、無理にでも祖母についていくべきだったのでは。


「……とりあえず、夜逃げとか、そういうのではなさそうよね。それなら、わたしに紅茶館をやれなんて言わないはずだし……」


 とぼとぼと、三度目の同じルートを通って、紅茶館にたどり着く。


 鍵の束から店の扉の鍵を差し込み、ゆっくりと回した。




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