第7章 梓と赤の国の民

第34話 メアリー・アンと梓

     *


 梓が初めて鏡の国に入り込んだのは、高校生になったばかりの時だった。女学院と呼ばれているところに通っていた。


 父と母は店に出ている。

 飼っていた猫とウサギが飛び回る賑やかな部屋——現在の紅茶館でいう休憩室では、制服を着替えないまま、祖父が貿易の仕事をしていた時に手に入れたという分厚い図鑑のような大きさの紅茶の本を眺めながら梓がうとうとしていると、暖炉の上の飾り棚マントルピースに茶色のウサギと黒猫、白猫が飛び乗った。


 慌てて起き上がるが間に合わず、置き時計は床に落ち、壊れた。


「あなたたち、ダメでしょう! おじいちゃんの形見の時計なのに壊れちゃったじゃないの!」


 いつもはそんなところに上らないのに。


 不思議に思い、暖炉に近づく。


 鏡の下の方が水面のように波打っているように見えたと同時に、ウサギたちが鏡の中へ逃げ込んだ。


 梓は、目を疑った。


 鏡の向こうは、部屋のドアが開かれ、花が咲く庭がよく見える。こちらとはまったく違う景色だった。

 花に紛れた茶色いウサギが振り返り、まるで、梓が来るのを待っているかのようだ。


 これは、夢なのかも知れない。


 そう思い、まだ波打つ鏡を不思議そうに見つめると、思い切って手で触れてみた。

 水の中に手を入れたように突き抜けた感触は一瞬だった。


 暖炉に上がると、鏡を通り抜けられた。


 夢……よね? だから……よね?


 そう思っていながらも、考えもなしに来てしまったと梓は後悔し始め、戸惑っていた。


「あっ、待って! シュガー! ココア! ラテ!」


 先に入っていった白猫、黒猫、茶色ウサギは、梓が来たとわかると、花壇に咲く花々の中へと姿を消した。

 戻ろうにも、振り返るとドアが閉じられ、鍵がかかったようにいくらノブを回そうとしても動かず、押しても引いても開かない。


 梓はしばらく途方に暮れていた。


 その後だった。


「あなた、誰?」


 赤いドレスの、同じ年頃と思われる金髪の少女と、彼女の連れている大人しそうな少年に出会ったのは。




 梓は当分帰れずにいた。その間、赤いドレスで身なりの良い自称プリンセスであるメアリー・アンの城で世話になり、アズサと同じく十五歳だという彼女が通う王立学院にもついていった。


 姉妹のいなかったメアリー・アンは、祖父の趣味で梓がチェスが出来ることを知ると喜んで迎えた。学校から帰ると、二人はチェスに明け暮れていた。


「あなたって強いのね! 頼もしいわ! リゼじゃ私の相手にはならないから」

「だって、メアリー・アンは強いから。ぼくじゃとてもかなわないよ」


 メアリー・アンの家では、大人しそうな色白の少年リゼがいた。リゼは彼女専属の荷物持ちや下僕のような役割であった。


 ここは、時間の流れをあまり感じさせない、不思議な空気感があった。夜であってもお茶会をしていて全然眠くならなかったり、空が暗くなって夜になったと思っても、カーテンをめくったようにすぐに明るくなってしまったり、或いは、ずっと薄暗いままだったりで、一日の長さが一定ではないように思えるのだった。


 ある時、メアリー・アンが家庭教師との勉強後にチェスをする約束をしていた梓は、隣室でお茶を飲んで待つ間に、ふと自分の家のことを思い出した。


 夢の中の割に、思いの外時間が経っている。

 さらに、自分のいた世界のことを、あまりよく思い出せなくなってきていることに不安を覚えていた。


 自分の名前ですら、本当に『梓』だったのかと、時には考えるほどだった。


 一緒に紅茶を飲んでいるリゼに、そのことを打ち明けた。

 リゼは真剣に聞いていた。そういう状態に陥ることは、『他の世界の者』にはよくある、という。


 そのついでに、彼も打ち明けた。


「実は、僕も元々はこの国の住民ではないんです。僕の故郷はもうなくなってしまって、父もまだ戻らない。居場所のない僕を、メアリー・アンが赤の国の民として迎えてくれたんです」


 リゼに同情するうちに、気弱になっていた梓は、感情を抑えきれなくなった。


「どうして、こんなことになってしまったの? 私はいつになったら帰れるの?」


 独り言のように言うと、緊張の糸が切れたように泣き出した。リゼが隣に移り、優しく肩や腕をさする。


「僕も同じ思いです。でも、メアリー・アンのおかげで、ここでは友達も出来ましたから。父が用事を済ませて戻るまで何年かかかると聞いていますが、その間も普通に過ごして待っているつもりです。父が戻ったら、アズサも帰れると思いますよ。それしか、今のところは帰る方法はないと思うので、気長に待ってみてはどうですか?」


「何年も……リゼは、何年もひとりで……?」


「ひとりじゃありませんよ」


 にこっと答える彼を見ていると、自分だけではないと思え、少し不安は取り除かれた気になった。


 夜、眠る間、なぜか彼はウサギの姿になっていた。ウサギ小屋で眠る白いウサギが彼だったと知るまで、時間がかかった。


     *


 メアリー・アンが、学校に梓を連れて行った時だった。


 裏庭の樹木の近くに、目的の人物はいた。クラスで、いや、学校中で一番の美形だとも言われている幼馴染みだという青年に、彼女はチェスの強い梓を誇らしげに真っ先に紹介した。


 長身で彫りの深い顔立ち。日本人よりもやや浅黒い肌に黒髪の、明らかな異国の男だ。


 異国の男なら、梓の住んでいる横浜ではよく見かける。近所にも住んでいて、さほど珍しくはなかった。


 だが、彼の頭の上には猫のような獣の耳に、背後から伸びた縞模様の尻尾は持ち上がり、様子をうかがうようにうねうねと動いていた。

 それは、初めて見る。


 風になびくセミロングの黒髪。金色に縁を縫い取られた豪華な詰襟の上着を開け、ぴらぴらのフリルの付いた衣服をのぞかせ、黒いスラックスにブーツを履いている。


 おとぎ話に出てくる王子のような出で立ちに、梓には見えた。


 見渡せば、生徒のほとんどが、どこかしら動物じみていたり、動物そのものが洋服を身に付けていたりしていた。メアリーとリゼのような人間の姿をした者の方が少ない。


 その中で、目の前の青年は、一部が動物化していても充分美しかった。


 青年はアールグレイと名乗った。公爵家の息子で、メアリー・アンの婚約者候補の一人だった。


「僕と同じ黒髪なのになんてエキゾチック! 黒曜石のように強く輝く美しい瞳、そして、セーラーカラーの制服……! 何もかもが、なんて可愛らしいんだ!」


 アールグレイはしばらく梓から目を離さず、切れ長の黒い瞳を潤んだように輝かせ、貴婦人に対して紳士がするように深々お辞儀をすると、梓の手を取り、甲に口付けた。


 驚いた梓が急いで手を引っ込めたが、彼はますます「なんて奥ゆかしい!」などと騒いでいた。

 それには、メアリー・アンは冷たい視線をぶつけている。


「アズサ、気にすることないわ。この男はね、誰にだってこういう態度なのよ。要するに、女っタラシなのよ。気を付けなさい」


 だったら、なぜ紹介したのかしら?


 梓が問いかけるようにリゼを見るが、リゼはほわほわとした笑顔で見守っていた。


「アールグレイはいい人ですよ。友達になれて良かったですね」


 梓の友達が増えたことを、純粋に喜んでいるようだった。

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