第3章 フシギなヒトタチ

第12話 最悪な再会

 なぎが東京のアパートを退去する時に必要な解約手続きと、管理人と不動産屋の立ち合いの日だった。

 ついでに残りの荷物をまとめて紅茶館へと持ち帰るのだが、なぎ独りでは手が足りない。


「銀座には、確かお茶の博物館があったのよね。いつか行きたいと思ってたから、解約手続きが終わったら、荷物はコインロッカーにでも預けて、見に行ってみようかしら」


 食事中に、そんな独り言を口にしていた。


「えっ! なになに? なぎ、銀座にも行くの?」


 付き添うことになっている弥月が、オレンジがかった明るい色の瞳を輝かせる。


「わーい! 銀座、久しぶりだぜー!」


 飛び跳ねる弥月に、なぎは顔をしかめた。


「みーくんを連れて行くなんて、なんかちょっと不安」


「えー、なんでだよー、オレも行きたいよー! 時々新しいものとか美しいものを見ないと、発想が乏しくなるんだよー!」


 弥月がそんなことを言うとは意外だった。


 いつも行き当たりばったりでティーフードを作っているわけじゃなかったのね。


「じゃあ、いいけど、電車の中でもじっとして、博物館でもすぐにどこかに行っちゃったりしない?」


 言っていて、まるで小さい子供に言い聞かせているようだと思うと、苦笑いになってしまった。


「そのくらい出来るよー。オレはコドモじゃないんだぜー」


 電車では、なぎの隣では弥月が「東京! 銀座!」とはしゃいで座っていた。

 横浜からなら東京は大して遠くはない。なぎは恥ずかしくなり、「静かにしてよ」と小声で言った。


「ふ〜ん、東京ね。面白そうだけど、どうせ僕は半径1m 以内は、きみに近付けないからね」


 と、なぎに向かって言う紫庵は、弥月の隣に座っていた。

 「だったら、なんで来たのかしら?」と、なぎは思った。


 リゼとありすは留守番をすることになっていて、まだインドから帰らない博士もそこにいない。


 電車を乗り継ぎ、なぎの住んでいたアパートへの道を歩いていく。


 久しぶりだな、この道。


 周りにあるコンビニはよく利用していたのが懐かしく思える。

 なくなってしまった本屋はコインパーキングとなっていた。


 もうここを歩くことは、ないのよね……。


 少しだけ感傷的な気分になるが、数週間の間に、自分はもう紅茶館の人間なのだと思えていた。

 わからないことだらけで毎日慌てていても、あの会社にいた時よりも、仕事が楽しいって思えるようになってきたという自覚がある。

 だから、淋しくはない。


 そう思うには、紅茶館の彼らの存在も大きいのだろう。

 少々振り回されている気もするが、彼らがいなかったら、自分ひとりで店を再開することは到底無理だったのだから。


 あんな変な人たちでも、いてくれたら心強いものだなと、なぎは改めて思った。


「見えてきたわ。そこの角を曲がるとすぐにアパートがあって……」


 アパートの階段を上がっていき、なぎがドアを開けた時だった。


「……やあ」


 その声に、なぎの身体が反射的に強張こわばった。


「やっと会えたね」


 ねとっとした聞き覚えのある声がすると、二軒先の部屋の前でうずくまっていたものが、ぬっと立ち上がり、見覚えのある巨体が現れたのだった。


 反射的に、なぎは飛び退いた。


「……まさか、ずっと待ち伏せてたの……?」


 太り過ぎて呼吸の荒い長身の男は、固まっているなぎを見下ろした。 


「きみのせいで、あれからボクは、女子社員たちから、キモいものを見るような耐え難い視線を毎日毎日浴びせられるし、仕事でもミスが増えて課長に怒られるし、散々だったんだよ」


「そんなの知らないわよ、自分で蒔いた種じゃないの!」


 勇気を振り絞って、強く言い返す。


 男が近付き、危険を察したなぎが、さらに後退あとずさる。


「おーい、なぎー。ああ、いたいた!」


 何も知らない弥月が、呼びかけながら階段を登り、その後ろからかったるそうに紫庵もやってきた。


 ぎょっとしたように、男が二人の男を見る。


「なんだ、その男たちは? ま、まさか、キミ、会社を辞めた後は男を連れ込むように……?」

「ち、違うわ」

「山根さん……ボクを、騙したんだね……!」


 なぎの言葉など耳に入らず、自己判断で決めつけた男は、煮えたたこのように顔を赤くし、汗が吹き出し始め、ゆらーっと近付いた。


「みーくん、紫庵! 逃げるわよ!」


 なぎが隣に並んだ弥月の手を引っ張り、ドアを開けたまま駆け出そうとするが、弥月は動かず、男を睨んだ。


「お前、イヤな匂いがする」


「なんだと? 大人に向かって失礼なガキだ!」


 なぎよりも少し背があるくらいの、男にしては小柄な方である弥月を、巨体は威圧的に見下した。


「みーくん! そいつ、今何するかわからないから逃げて!」


 男に手首を掴まれ、なぎが悲鳴を上げる。


「やめろよ!」


 いきなり、弥月は男を蹴り飛ばした。

 呻き声を上げながら後方に倒れ、男は尻餅を付いた。


「……へっ? ……ええっ!? ちょっと何してんのー!?」


 なぎは驚きのあまり弥月を見つめるが、弥月も紫庵も顔色ひとつ変えていない。


 鳩尾みぞおちを抑えながら、荒い呼吸になった男は、ひどく慌てた。


「暴力を……振るったな! ううう、訴え……てやる!」


「何言ってんだよ! そっちこそ、なぎを怖がらせて手を引っ張ったじゃないか! そっちが先に手を出したんだぜ!」


 勢いのある弥月の声に、男は黙った。


 黙った理由は、それだけではなかった。


「訴えられて困るのは、あなたの方よ」


 冷静な少女の声になぎが驚くと、アパートのドアの中から、ありすと、その脇にリゼが現れたのだった。


「えっ? えええっ!? ありすちゃんとリゼさん、なんでアパートの中に!?」


「セクハラでストーカー、暴行……。僕は半径1m 以内は近付けないってのに、お前、最っ低だな!」


 弥月の後ろから、紫庵が、つららのように突き刺さる凍った視線と、同情の余地もない口調で言い放つ。


「暴行だと!? 何もしてないじゃないか!」


「なぎさんの手首が赤くなってます。あなたの掴んだところが」


 静かにリゼが答えた。


 なぎは自分の手首を見て、男の指の跡と爪痕もつき、皮が剥けていることに気付いた。


「裁判をしてもいいのよ? 判決が先のね。そして、判決は、もう決まっている」


 ガラス玉のような感情のない瞳をした、ありすの平淡な声だった。

 子供にはないその凛とした響きには、大人でもハッとする。


「あなたの罪を数えてあげる」


 ありすが合図をするようにリゼを見上げると、リゼが上質な巻紙を取り出し、読み上げた。


「セクハラ、ストーカー行為、迷惑行為、恐喝、暴行罪、加齢臭」


「おい、待て! 加齢臭ってなんだ! それは罪なのか? しかも、ボクはそこまで年行ってないぞ!」


「弥月が、『匂う』と言ったので」


 平然としているリゼに、弥月が言い返した。


「オレは、『イヤな匂いがする』って言ったんだぜ? って意味だよ」


「そうでしたか。失礼しました。では、『加齢臭』改めまして『悪臭』で」


「なんだそれは!」


 呆気に取られている間に、アパートの中から風が吹いてきていることに、なぎは気が付いた。


 風?


 正確には、その風は、なぎが以前ありすから渡された写真立てほどの鏡から、吹いているようであった。


 ありすが、その鏡に向かって人差し指を向けると、ここには見えていない何かが映っていた。


 赤い『何か』だった。


 どこかで見たような気もするが、なぎには思い出せない。


 頭の部分が丸い、柱のようなものが小さく見えたと思うと、それは頭も身体も手足もが風船がふくらむようにして鏡から出現すると同時に巨大化していき、なぎたち人間ほどの大きさになって現れた、

 そして、は、手にしていたスピアを構え、男の腹をつついたのだった。


「いてぇっ! なっ、なんだっ!?」


 振り返った男は、赤い『柱』を目の前に、これ以上ないくらいに目を見開いていたが、逃げ腰になった。


「ポーンを、dの4へ」


 まるで呪文のように、ありすが言うと、赤いものはスピアで男の尻を突き刺し、そのまま男を引きずりながら鏡に向かっていく。


「いてぇっ! い、いったいなんだこれは!? 何が起きてるんだ!?」


 わめきまくる男に構わず、赤いものは鏡の中へと足を突っ込み、出る時と逆に吸い込まれるようにして縮み、鏡の中へと戻っていった。男を引きずりながら。


 鏡は柔らかい物質に変わったように、縦になった水の表面のように波打ち、赤いものと叫ぶ男をいった。


 男の頭が入り込んだ時には、叫び声は聞こえなくなった。恐怖に見開かれた目で、ぱくぱくと口を開けているだけだ。


 驚いて声も上げられないなぎは、男の身体が靴の先まで鏡の中に入っていくのをただ見ていた。 


 鏡の向こう側の床は、いつの間にか、黒と白のチェック模様になっている。なぎたちのいるとは全く違う風景だ。


 あれは、チェスばん……!?

 さっき、ありすちゃんは、ポーンって……チェスの駒のこと!?


 頭の中には、それだけが浮かんだ。


 そして、揺れる景色の中を、見覚えのある服装が駆け抜けていった。

 通常の人間の走る速度ではない。


 速すぎて確信は持てないが、あの服は、祖母・梓がイギリスに立つ時に着ていたものと良く似ていたように思えた。


「……おばあちゃん!?」


 がひどくなると、元通り、アンティークな枠に収まる鏡に戻っていた。


 男の姿は、どこにもなかった。

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