第37話 時の流れとラム・バニラティー

「アズサ、ぼくの父さんが戻ってきました」


 それは、メアリーの結婚式を三日前に控えた時だった。


 リゼの左目の下には、うっすらと内出血の跡が見られる。


 婚約が決定する直前、また一悶着あった。メアリーがリゼと結婚したいなどと言い出し、大騒ぎになっていたのだった。


「やっぱり王家と結婚なんてムリ。自分で結婚相手を選べないなんてナンセンスだわ! お願い、リゼ、私を連れて逃げて」


「それは出来ません」


 その時にメアリーが殴った跡だと、梓は召使いたちから聞き、ただただ目を丸くするばかりだった。


 梓が学校から帰るとリゼが出迎え、父親のグルジアを紹介した。


 それは、二本足で立った白いウサギだった。

 リゼの紅茶色の瞳よりも赤い、紅玉ルビーのような澄んだ瞳だ。

 ハートやスペードなどの模様の布を掲げた、紺色の制服のようなものを着ている。


「父さんは、これからちょっと『鏡の向こうの国』に行かなくてはならなくなりました。そのついでにあなたを送れるそうです。アズサ、帰るなら今夜です」


「帰れる……の?」


「はい。良かったですね。ぼくたちはさびしくなりますが」


 言いながら、リゼがさびしそうに笑った。


 ふと、アールグレイの切なく真剣な眼差しが思い起こされる。


『帰るなよ』


 力強く抱きしめる腕。

 オレンジのようなベルガモットの爽やかな香り。


 彼は、梓の知る誰よりも美しい。あのような現実離れした美しい男性など、彼女の住む世界にはいるはずがない。


 だが、彼のことはよくは知らない。

 彼が自分のどこを気に入ってくれたのかもわからない。

 彼自身も、あんなことを口走ってしまって、あれから戸惑っているようだった。


 このような落ち着かない気分など、互いに一過性のものに違いない。


 そう考えてからゆっくりと瞬きをし、凛とした瞳に戻ると、梓はメアリー・アンとその両親に礼を言い、アールグレイには会わずに帰ることにした。

 別れ際にメアリー・アンが目に涙を溜め、梓の手を固く握った。


 そして、最初にここへ来た時の小さな家に向かった。

 以前、何度来ても開かなかったドアが、リゼの父が持つ懐中時計の蓋を開くと、有り得ないほど簡単に開いたのだった。


 リゼの見送る中、白いウサギと梓は、家の中の大きな鏡の前に立った。


     *


 そこまで、赤のクイーン、梓、ティー・ロワイヤルを飲み干した直後に一度姿を消し、またすぐに現れた紫庵の三人が話し終えると、梓は疲れたと言って席を立った。


 なぎは二階まで祖母に付き添い、ベッドに寝かせ、労わるような動作で布団をかけた。


 階段を降り、紫庵とクイーンの待つテーブルに戻ると、甘い香りに気がついた。


「ラム・バニラティーだよ。なぎちゃんの分も今淹れるよ」


 アッサムの茶葉とバニラビーンズを入れ、熱湯を注いで蒸らし、カップに注ぐ。

 牛乳とグラニュー糖を入れて混ぜ、ラム酒を加えた。


「バニラがいい香りね。洋菓子みたいにラム酒の甘さも手伝って美味しい……! バニラビーンズは高いけど、まあいいか」


 ほくほくとした笑顔でもう一口、なぎはバニラティーを飲んだ。


「それにしても、びっくりだったわ。おばあちゃんがそんなに若い頃に鏡の国に行ってたなんて。しかも、紫庵とおばあちゃんにそんなことがあったなんて……。だって、年離れてるわよね? でも出会った時は同じ歳だったって……?」


「梓は、それからも鏡を通してちょくちょく赤の国に来たりしてたよ。来るたびに彼女だけ年を取っていて。リゼが言うには、世界によって時間の進み具合が違うらしいんだ。だから、僕たちにとってはそれほど月日は経っていなくても、アズサの世界では早く時が進んでいた。ただでさえ、僕たちのいる世界は時間の進み方がイカれてるみたいで、だから、最初になぎちゃんに年を聞かれた時も、答えても意味がないと思ってた。ありすなんか七歳半で年が止まったままだし」


「そうなのよ!」


 クイーンが続いた。


「赤ちゃんの時から突然何ヶ月分も一年分も成長したり、なのに心は追いついていないのか、大人びた態度だと思えば急に泣き出したり。リゼが時間を決めて寝る前に絵本を読んであげればおさまるようになったのよ」


「ありすちゃん、……そうだったの」


「ありすはほとんどリゼが育てたようなものだわ。お城の育児係なんてイカレてて信用ならないし、特にほら、アールグレイの母親の公爵夫人なんか、使用人と一緒になって赤ちゃんにコショウをかけるような人でしょう? 挙げ句の果てに赤ちゃんは子ブタになっちゃうし。だったら、リゼの方がよっぽど安心して任せられるわ」


 意味不明な顔になるなぎは、ごくんとラム・バニラティーを喉に押し込んでその美味しさに満面の笑みになるメアリー・アンをただただ見つめ、どこから尋ねていいものかわからなくなった。


「年を取っていくアズサもまた綺麗だったなぁ。今の銀髪だって素敵だ」


 ティーカップを傾けた紫庵は宙を見上げ、うっとりと言った。


 先ほど、暖炉の上の鏡から飛び出して来た時に、クイーンではなく梓を抱き止めた紫庵の、心から心配していたような顔を思い出すと、なぎの胸が熱くなった。


「紫庵も、自分のいる世界と違う世界の人を好きになっていたのね。おばあちゃんが結婚した時とかも、辛かったんじゃ……」


 恐る恐る彼を見ると、「ははっ」と、思いのほか紫庵は軽く笑い飛ばした。


「アズサは父親が亡くなった時とか、母親と二人で紅茶館の経営を続けて時々弱音を吐きたくなった時とかは、鏡を通って来たりしていたよ。ああ、メアリー・アンがクイーンになってからは、許可した者だけは行き来が出来るようになってたからね。まあ、そんなのはアズサくらいだけど」


 紅茶を一口すすってから、紫庵は語り続けた。


「紅茶館には僕たちも手伝いに行っていたけれど、どうしても定期的に猫やウサギの姿になっちゃうから、それをカモフラージュするために本物の猫とウサギを飼ったりしてた。と言っても、僕たちも時々は国に帰らないとならなかったし、こっちの国では月に一度動物の姿になっちゃうし、世界の違う者同士なんだと突き付けられることは多かった。彼女が大変なのは見ていてわかってたから、彼女は自分と同じ世界の人と一緒になるべきだ……って、思うようにしたよ」


 リゼも以前似たようなことを言っていたのを、なぎは思い浮かべていた。

 ましてや、鏡の国に来るたびに年を取る相手を見ていたら、住む世界が違うと身に染みないはずがない。


「想いをげるよりも見守る方を選んだのね……。紫庵て、意外と一途で大人で……いい人だったのね」


 感動するなぎの瞳は、潤んでいった。


「僕の愛がとてつもなく大きく、僕がとてつもなく心の広い人間だって、わかってくれたかい? なぎちゃん!」


「え、ええ、まあ」


 浮かれて、ぬるくなったラム・バニラティーを飲む紫庵を、なぎは見上げて微笑んだ。


「あんたがアズサを好きだったなんて、今の今までまったくもって全然知らなかったわよ」


 そう笑うクイーンに、「えっ!?」と、紫庵もなぎも驚愕のあまり、テーブルに身を乗り出した。


「ウソだろ!?」


「私に対しては幼馴染みだからテレがあって、憎まれ口を叩いてるんだと思ってたわ」


「……ここまでヒトの気持ちがわからないとは思わなかったよ」


 こそこそと、紫庵がなぎに耳打ちする。


 なぎはクイーンを上目遣いで見て、遠慮がちに切り出した。


「あの……、じゃあ、リゼさんの気持ちには……気が付いてました?」

「リゼの気持ちって?」


 けろっと聞き返すクイーンに、なぎは息を呑んでから続けた。


「リゼさんは、あなたのことを……」

「ええ、リゼは私のことが好きだったわ」


 なぎは愕然として黙り込んだ。

 さーっと血の気が引く思いにかられ、軽くめまいを覚えながら、ありすの面差しのあるクイーンの顔を見る。


「知っていて、彼にお茶の係やありすちゃんのお世話係を命じたんですか? リゼさんがどんな気持ちでいたか……。それとも、あなたもリゼさんに想いを残しながら、……今も、女王としての務めをなさっているんでしょうか?」


 さりげなく紅茶を飲むていで、ティーカップ越しに紫庵はなぎとクイーンとを見ていた。


 クイーンは呆気にとられた顔になってから、ため息交じりに答えた。


「確かに私は、私を連れて逃げなかったリゼに腹を立ててはいたものの、いつも穏やかに私を受け止めてくれる彼がそばにいて支えてくれたら、一国の女王という大役にも耐えていけ、もしもひどい夫であってもなんとかやっていけるんじゃないかって思えたわ。だけど、赤の王……今はまだ眠り続けている彼は、ちょっとやんちゃで面白くて、一緒にチェスをしていると楽しい人だったのよ。隣国の『白の国』のキングとも幼い頃から交流があったようだから、せいぜいチェスの結果が気に入らなくて口ゲンカするくらいで、戦争にまではなりそうにはなかったし」


 なぎが確認するように紫庵を見上げると、「ああ、キングはだいたいそんな感じだよ」と適当な感じで答えた。


 黙っているなぎの目が何か言いたげであるのが、彼には伝わった。


「言っておくけど、チェスは僕たちの国では重要で、何かを決める時に必要なものでもある。だけどその前に、僕もリゼもキングも全然違う性格だって言いたいんだよね? その通りだよ。メアリー・アンの好みはイマイチよくわからないんだ。そもそも、なぎちゃんから見た『鏡の国』はね、皆イカレてるんだから」


 小声でそう答えた紫庵に、なぎは半信半疑だったが納得することにした。


「さて、アズサも無事で眠ったことだし、やっと僕も安心できた。今度こそリゼを探しに行って来よう」


「気を付けて」


 これまでにはなかった信頼した視線を向けるなぎに、紫庵はウィンクして笑ってみせた。




【ラム・バニラティー】2杯分

茶葉 6g(アッサム、キャンディ、ケニアなど。色が濃くコクの強い茶葉)

熱湯 340cc

バニラビーンズ 1/4本

牛乳 50cc

グラニュー糖 ティースプーン2杯

ラム酒 適当


①ポットに茶葉、バニラビーンズ、熱湯を入れ、3分蒸らす。

②カップに①を注ぎ、牛乳、グラニュー糖を入れる。

③ラム酒を加える。

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