第36話 アールグレイと梓とアフタヌーンティー

「アールグレイ」


 学校ではいつものように女子に囲まれていた彼は、梓の呼びかけに振り向くと同時に、ひゅっと猫の耳と尾を消した。

 出会って以降、梓の前では、いつもそうして彼女と変わらない人間の姿になっていた。


「ちょっと話せない?」


 中庭のバラの花々に囲まれたベンチに腰掛ける。


「メアリー・アンは学校にも行きたくないって、何日も部屋から一歩も出てこないの」


「ふ〜ん、あのワガママ癇癪かんしゃく持ちにはよくあることだよ」


「ひどい言いようね。幼馴染みなのに」


 梓は呆れたように、彼を見た。


「でも、誤解しないであげて。彼女はプリンセスだから、自分の本当に好きな人とは結婚出来ず、親や国の決めた人と一緒にならなくてはならないの」


「そんなの、身分の高い者の宿命だよ。しかも、彼女ほどチェスの才能のあるプリンセスはいないんだから、当然だよ」


「随分あっさり言うのね。『私の国』でもそう。叶うならイギリスに英文学の勉強に行ってみたいけど、父親からは早く紅茶館を手伝えとか、歳を取ったら嫁の貰い手がなくなるから進学しなくていいとか言われてるわ。そもそも女子が学校に通うのは良妻賢母になるためで、見合いの条件が良くなるから私立の女学院に通わせてやってるんだって」


 途端にアールグレイが血相を変えて、梓を見下ろした。


「アズサも実はもう結婚相手が……いるのか?」


「私は聞いていないけれど、親が縁談を探していると思うわ。おそらく、両親の経営しているお店にとって条件の良い家との、ね」


 彼のまっすぐな視線に気が付くと、梓は怪訝そうな表情になってから続けた。


「そんなことよりも、メアリー・アンのことよ。結婚が近付いて、ちょっと憂鬱だったり、神経質になってるんだと思うの。近所の友達のお姉さんもそうだったから、なんとなくわかるわ。顔も知らない年の離れた人と結婚しなくちゃいけなくなったって不安に思ってた人や、好きな人——まあ、話したこともない人らしいけど——がいたのに別の人との結婚が決まってしまって泣いてた子も。私の通っている学校には元華族とかお金持ちの子も多いから、政略結婚みたいな話も聞いていたわ」


 アールグレイの宝石のような碧い瞳は、動揺を隠しきれずにいた。


「アズサは……好きな男とか、……いたのか?」


「まさか。女子だけの学校に通ってるのよ。男の人と知り合うこともないし、だいたい、男の人とそんなに話したこともないし」


「……だったら、帰るなよ」


「え……?」


「帰るなよ、アズサ、『鏡の向こうの国』になんか……」


 鏡の向こう……ああ、彼らから見れば、私の世界の方が鏡の向こうにあるのか。


 そう考えていた時だった。


 強く抱きしめられていた。


「ずっとここにいればいいよ。僕も結婚なんかしないから、きみもするな」


「何を言ってるの? だめよ、グレイ、放して」


「嫌だ」


 アールグレイが、梓の頭を自分の胸に押し付け、さらに強く抱きしめた。


 黒い艶やかな髪から、オレンジのような香りがする。

 心地よい香りだ。

 常に、彼の周りでは、そのような香りがしていたことに気が付いた。


 梓は身体を強張こわばらせ、両手を突っぱね、やっとのことで彼から離れられた。


「……ごめんなさい」


「あ、いや……。僕こそ、……ごめん」


 アールグレイは腕を下ろし、梓はベンチから立ち上がった。


「私はただ、……メアリー・アンを誤解しないであげてって、言いたかっただけなの。王子様と結婚するというのはどういうことなのか、わかるでしょう? 不安な気持ちをわかってあげて。それから、彼女にも好きな人がいたとしても、諦めなくてはならないってことも」


「……うん」


 上の空のような声だった。呆然としたアールグレイは、ただ梓を見つめていた。

 強いオレンジの香りの中で、碧く澄んだ、正面から見てしまうと吸い込まれそうな瞳が訴えかける切ない視線は、梓には苦しく思え、まともに見ることが出来ないでいた。


      *


「メアリー・アン、お客さんだよ」


 ベッドにうつ伏せていたメアリー・アンは、リゼの声に慌てて起き上がった。


「ちょっとリゼ! 誰も入れないでって言ったでしょう!」


「おーい、メアリー・アン、お菓子持って来たぜー!」


 メアリーの怒る声と同時にそう言って入って来たのは、両手にバスケットを持った少年だった。茶色のうさぎ耳を垂れさせている、褐色の肌に金髪、茶系チェック柄ベストにニッカボッカのズボンの後ろには、丸いふわふわの尻尾もあった。


「なんだ、ダージリンじゃない」


 少しだけメアリーの表情が和らぎ、跳ね起きるとテーブルのあるソファまで急いだ。


「リゼ、お茶を淹れてくれ。久々にリゼのチャイが飲みたい! オレの作ったスパイスを使った試作クッキーでアフタヌーンティーしようぜー!」


「でも、クッキーにスパイスを使ってるなら、紅茶はアッサムかディンブラのミルクティーがいいかと……」


「そんなこと気にするなよ! オレは今スパイシーな気分なんだぜ! リゼが『リゼ』でチャイを淹れろよ」


 そう言うと、ダージリンは一人でゲラゲラと笑った。


 梓の帰りを待ってから、メアリー・アンの部屋ではちょっとしたアフタヌーンティーが始まった。


 ダージリンは鼻歌混じりに、作ってきた菓子などのティーフードをテーブルに用意していった。


 花柄の皿にはスコーンを。その横にジャムとクロテッドクリームをそれぞれ乗せた小皿を添え、隣の金色の模様で縁取りされた白い皿にはキューカンバーサンドウィッチを置く。


 パステルカラーの色とりどりのマカロン、紅茶の茶葉とブラウンシュガーを使ったバナナケーキ、そして、試作したというスパイスを効かせたクッキーには、模様を描くように少量のジャムを乗せてから並べた。


 リゼの方は、小鍋でミルク、リゼの茶葉とシナモン、カルダモン、クローブ、しょうが等のスパイスをホールのまま入れて温めて煮出したチャイを、温めておいたティーカップに注ぎ、ソーサーと一緒にテーブルに乗せていった。


「美味しそう……!」


 目を見張る梓の口から、思わず感嘆の声が漏れた。


 メアリー・アンは嬉々として、まずはチャイに口をつけた。


「美味しいっ! リゼの淹れたチャイは最高なのよね!」


「ありがとう」


「んーっ! ダージリンの作ってきたマカロンはいつ食べても美味しいっ! この黄色いのはレモン味?」


「そ! ピンクのはストロベリーにラズベリーもちょっと混ぜた。グリーンのはピスタチオ」


「ピスタチオのクリーム、甘さ控えめなのに何この上品な美味しさーっ!? クッキーはちょっとシナモンが効いてるけど甘みもあるのね」


「シナモンもアーモンドも粉にして混ぜたんだぜ」


「アーモンド、私大好き! ストロベリーのジャムが模様みたいで、クッキーに赤が映えて見た目も可愛くなるし、すっごく美味しいわ!」


「だろー? スコーンのお代わりも持ってきたぜ。マーマレードのジャムもな!」


 菓子作り見習いだというウサギ少年ダージリンは、時々彼女に菓子の差し入れをしているのを梓も知っていた。彼の焼き菓子は、いつもメアリーの大好物となり、梓のお気に入りにもなっていた。それに合わせたリゼの淹れる紅茶も。


「アズサも美味いか?」


 ダージリンが、くりくりとした丸い目を無邪気に輝かせている。

 ピンク色のマカロンを一口かじったアズサの瞳が大きく開いた。


「クッキーとは違うのね、もっと軽くて、初めてだわ、こんな食感」


「マカロンはメレンゲが命なんだぜ。卵の白身をちょうどよく泡立てて、アーモンドの粉がいい味出してるんだ。スパイシークッキーの方はどうだ? 好きか?」


「ええ。変わった味だけど、甘味もあるからとても美味しいわ」


「やったぜーっ!」


 大喜びしてはしゃぎ回る彼を前にメアリーが笑い、アズサも思わず笑顔になる。


「良かった。メアリー・アンが笑ってくれて」


 さりげなく言ったリゼは、心底嬉しそうに微笑んでいた。


「ダージリンはメアリー・アンを喜ばせる天才だね」

「だろー?」

「ほらほら、ジャムがこぼれてるよ」

「えっ、ホントだっ!」


 ダージリンのベストとズボンに、スコーンからオレンジ色のジャムが、トロッとたれた。

 メアリーが大笑いし、リゼが拭き取っている。

 思わず梓もクスッと笑った。


「二人とも、私が赤の城に嫁いだらいらっしゃい。雇ってあげるわ。リゼはお茶を淹れる係、ダージリンはティーフード係よ」


「うっわー、それ絶対面白そう! 今からやりたいくらいだぜー!」


 ダージリンは素直に大喜びしていた。


 リゼと梓は顔を見合わせ、微笑むと、リゼはメアリーに向き直った。


「ぼくも側にいますよ。だから、結婚しても知らない人ばかりではないですよ」

「リゼ……あんた、私のこと嫌ってないの?」

「嫌ってなんかいません。むしろ感謝してます」


 にっこり笑うリゼをしばらく見つめているうちに、メアリーの頬がほんのりと赤く染まっていく。


 コンコンと、開けっ放しのドアをノックする音が響いた。


「ついでに、僕もいるよ」


 アールグレイがにこりともせずに腕を組み、ドアに寄りかかって立っていた。


「知ってるだろ? 僕は赤の城でお茶の係に選ばれて、週に二回は城に行ってる。学院を卒業すれば常勤になる。幼馴染みがこれだけ付いてれば、赤の城なんか怖くないだろ?」


 途端に、メアリーの目から涙がこぼれ落ちた。

 梓が潤んだ瞳でメアリーに頷くと、メアリーは梓の胸に顔を伏せて泣きじゃくった。

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