* エピローグ *

横浜に戻って

 夜が明けたばかりで、外はまだ薄暗い。


 私だけ、帰って来ちゃったんだ……。


 皆にはお別れも言ってない。


 紅茶館にいた従業員たちの記憶はある。

 鏡の国の世界で、最後のパーティーに出て、ありすの部屋で眠ったまでは覚えている。

 よく眠れなかったはずがいつの間に眠っていたのか、そしてなぜか横浜の家に戻って来ていた。


「リゼさん……」


 思わず、口に出していた。


 もう会えない……?

 皆にも?


 瞳が潤んでいく。


 なんで、まだ会えるものと思い込んでいたんだろう?

 確かなことなんて何もなかったのに。


 こんなことなら、ちゃんとお別れを言えば良かった!

 ありすちゃんの言う通り、せめて話をすれば……!


 最後の夜だというのに、パーティーの間、別れ話になるのが辛くてろくに話さず、顔も見られなかったことを、なぎは今無性に後悔していた。


 こんな風に突然別れることになるくらいなら、きちんと別れ話を聞いて、受け止めておくべきだったのに!


 リゼさんが無事だっただけで良かったなんて、そんなことなかった。

 離れるのは嫌……!

 嫌だって、言えば良かった!


 やっぱり、種族の違いがどうしても頭の片隅にあったから?

 好きでいても、違う種族との未来は考えられなかったから?


 わたしが、ちゃんと向き合わなかったから……自分の気持ちとも、リゼさんの気持ちとも向き合わなかったから……!


 向き合う勇気が、わたしになかったから……!


 なぎの瞳からこぼれ落ちた涙が頬を濡らす。


 リゼさんだけじゃない。

 ありすちゃんとも、紫庵ともみーくんとも、博士とも、紅茶館を立て直すことが出来たお礼と、ちゃんと別れの挨拶をしておくべきだったのに……!


「皆、ごめんなさい……。叶うなら、わたし、……もう一度……皆に会いたい……!」


 ボロボロと頬をとめどなく伝う涙に構わず、休憩室の鏡の前で、なぎはしばらく立ち尽くした。


 突然、ガチャガチャと店のドアが音を立てた。


 やだ! 泥棒!?


 一気に全身を強張こわばらせたなぎが咄嗟に休憩室のソファの裏に隠れようとすると、話し声が聞こえてきた。


「ただいま」


 梓の声だ。

 急いで店に向かう。


「あら、なぎ、ただいま。起きていたの? 随分早いわね」


 緩くウェーブのかかった銀髪に翡翠の飾りを留め、上品なフリルのブラウスの上から臙脂えんじ色をしたベルベットのジャケットを羽織った祖母梓は、イギリスに向かった時の格好でスーツケースを引きずっていた。


 梓に続いてドアから入って来たのは、プラチナブロンドを後ろでひとまとめにした、柔らかい赤に近い茶色の瞳の女性——梓と近い年代と思われる、品のある老女だった。


「イギリスの友達のところに行くって言ってあったでしょう? 学生の頃イギリスに留学した時からの友人ダイアナよ。もう老後は好きなことをしたいと思って一年間彼女の家にいたから、今度は彼女をうちに招待したのよ」


「ああ、そうだったの」


 なぎは慌てて頬を流れていた涙を拭った。


 あれ? おばあちゃんがイギリスに行ったのって、別の理由だったんじゃ……?


「泣いていたの? 一体どうしたの? 紅茶館の経営はどうだったの? 何か問題でもあったの?」


「え……、おばあちゃん、この前帰って来た時に少しの間だけ一緒にお店やってたじゃない?」


 きょとんとする梓は首を傾げてから気を取り直し、友人に英語で孫のなぎを紹介し、なぎも金髪の老女に頭を下げ、簡単な英語であってもたどたどしく挨拶を交わした。


「私が留守をしている間に、あなたがちゃんと勉強したかどうか見てみたいわ。早速紅茶を淹れてくれる?」


「はい。今モーニングティーを淹れますね」


 なぎはまだ事態をよく飲み込めていないまま、店の厨房に入った。

 湯を沸かし、ウバとアッサム茶葉の量を計る。


 白い陶磁器製で薔薇の模様が描かれたブレンド・マシンに計量した茶葉を入れ、福引きの機械を回すのと同じように回し、混ざった茶葉を使ってミルクティーを淹れてから梓とダイアナの前に置いた。


 紅茶を口にしたダイアナは、さらに笑顔を見せて喜んだ。

 ウバのスーッとする香りとアッサムのコク。

 爽やかなミルクティーだ。

 梓も、「まずまずね」と感心してなぎに微笑んだ。


 なぎは自分も紅茶を一口含むと、ふと手を止めた。


 ……もしかして、今までのことは、全部、……夢だった……?


 頭からサーッと冷めていくような感覚が襲う。

 その思いつきを否定したく、もう一度スマートフォンを見ると、日付は三日後であっても西暦は進んでいる。


 店のカレンダーも確かめると、同じく、梓が旅立ち、自分が紅茶館を引き継いでから三年が経っていたのだった。


 だが、梓は一年後に戻ると言って出て行き、先ほどもダイアナの家に一年間いたと話していた。それとも計算が合わない。


 ダイアナと英語で話し続けている梓に、思い切って尋ねてみた。


「おばあちゃん、鏡の国の皆はどうしたか知ってる? ダージリンやアールグレイ、アッサム博士に、そして……リゼさんとありすちゃんは……?」


「なぎったら何を言っているの? リゼは入荷出来ない時もあるから仕方ないにしても、ダージリンもアールグレイも、アッサムまで、そんなに茶葉が足りなくなるまで放っておいたの? 早く仕入れないと」


 梓が眉間にしわを寄せて不思議そうな顔を向けている。


 いたたまれなくなったなぎは、休憩室に駆け込んだ。


 鏡の前に立つ。


 鏡にそうっと手をかざし、触れてみた。


 何も起こらない。


 当たり前だ。もし、本当に記憶通りに鏡の中に入れたとしても、自分一人では行ったことがない。


「……そうだわ、クイーンの通行証!」


 部屋の壁に向けて置かれたアンティークな書き物机まで行くと、引き出しを探す。

 トランプのケースからハートのクイーンのカードを探す。が、見つからない。


「……わたしったら、まさか、ホントにトランプのカードさえあれば鏡の中に入れるとでも思っていたのかしら?」


 なぎはため息混じりに思わずそう呟いていた。


 やはり、夢だったのだ。


 夢オチ……そんなの嫌!


 テーブルの上には、分厚く、図鑑のように大きい紅茶の本が開いたままになっていた。


 始めは、ここであの本を見ていた。

 おそらくページをめくって読んでいるうちに眠ってしまい、彼らが現れたと思ったが、眠ってから先は全部夢だったのだ。


 だけど、東京からここへ引っ越して三年が経過しているのはなんで?

 おばあちゃんが戻るまでの二年間、わたしはどうやってひとりで紅茶館を経営して来たの?

 なぜ、その記憶はないの?


 その時、何かを思いついたなぎは、再び店内に戻る。

 まだ梓がイギリス人の友人とお茶を飲んでいる。


 黒と白のチェス盤のような模様になっている床は、梓が経営していた頃は艶のある木目だったはずだ。


「間違いないわ! これは、みーくんと紫庵が一晩でリニューアルしたのよ!」


 なぎの声に驚いた梓が顔を上げる。


 なぎはドアを開け、外看板を見た。


 『ありす紅茶館 〜港の見える紅茶館〜』と書かれている。


「おばあちゃん! やっぱり、みーくん、紫庵、博士、リゼさん、ありすちゃんもここにいたのね!? 今はどこにいるの!?」


「まったく、さっきからあなたは一体何を言っているの? 床も看板も、あなたが業者に頼んでそういう風に直したんだって、メッセージで教えてくれたでしょう?」


「わたしが?」

「そう書いてあったわよ?」


 梓がスマートフォンを見せる。

 画面を読むなぎの顔が険しく変わり、自分のスマートフォンで送信履歴をたどる。

 送った履歴がなぜかすべて消えている。


「ねえ、なんだかおかしいわ……」

「おかしいのはあなたよ。疲れてるんじゃないの?」


 再び絶望に襲われたなぎはふらふらと休憩室に戻ると、へたへたと床に座り込んだ。


 皆が現実にはいなかったなんて……信じられない。


 彼らを知っている人に会って確かめたい。


 開店時間になれば、ライバル店の港の見える丘ティールームの店長湊海音みなと あまねやゴスロリ双子にも聞けるし、ユウに教えてもらったホテル・ニューグランド近くの女性バーテンダーのお店も夕方行ってみたりすればいい。ユウのバーには行ったことはなかったが、大体の場所は聞いていた。


 早い時間に目が覚めたせいか、眠気がやって来た。

 開店時間まではまだある。

 なぎはソファに寄りかかり、すーっと眠りに落ちていった。


      *


「寝てるみたい」


 子供だが平淡な声がする。


「起こさないであげましょう」


 聞き覚えのあるやさしい男性の声だ。


 いつの間にかうとうとしていたのか、紅茶の本に俯せていたなぎは顔を上げた。


「あれ? わたし、ソファで寝てたと思ったのに……」


「あっ、起きた!」


 元気な少年の声だった。


「おはよう、子猫ちゃん」


 耳元でささやく甘い声と肩に手を添えられ、ぼうっと横を見ると、見知った青年が笑いかけていた。


「……!?」

「どうかした?」

「だめだよ、紫庵。近すぎるよ」


 これ以上ないくらいに大きく見開いた目が見覚えのある面々を見渡し、正面にいる二人の青年に釘付けになった。


「無事に紅茶館に戻れたみたいですね、なぎさん」


 信じられない思いで、なぎは目の前にいる色の白い青年の紅茶色をした瞳と、見慣れていた微笑みに釘付けになった。


「赤のキングが目覚めたら、徐々に鏡の国の異変が直ってきたんです。どうやら、キングが眠らされた時から異変が急速に進んでしまっていて、キングの見ていた夢の通りになっていたみたいなんです。……まあ、夢の中では、ヴォーパルの剣でジャバウォックを倒したらしかったのですが」


「今は……現実?」


「そうですよ」


「……さっき、おばあちゃんが帰って来て、……皆のこと全然覚えてないみたいで、……全部わたしの夢だったのかと……」


が鏡の国から戻る時は、時々の状態になる時があるんです。アズサも若い時はそうなったみたいですよ」


 会いたかった、もう一度、この人に……!

 この人たちに……!


 なぎの瞳が一気に潤むと、目の前の青年の首にしがみついた。


「リゼさん! ごめんなさい!」


 リゼは可笑しそうに吹き出した。


「なんで、『ごめんなさい』なんです?」


「わたし、ちゃんと話せなかった。鏡の国で最後のパーティーだったのに、話す勇気がなかったの。別れる話を切り出されるのが怖くて! でも、さっき、もうリゼさんにも皆にもあのまま会えなくなるくらいなら、別れの挨拶になってしまってもいいからちゃんと話せば良かったって、後悔しまくって……」


 それ以上は声にならず、なぎは嗚咽した。


 リゼは穏やかな笑顔になり、なぎの背を抱いた。


「別れませんよ。アズサにもちゃんと話そうと思ってます」


「……何を?」


 掠れた声でなぎが尋ねると、リゼは柔らかく微笑んだ。


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