『海の色は何色』34


 ✳︎




 真っ暗。





 冷たい。





 痛い。








 苦しい。









 悲しい。








 どこかで、誰かが、私を呼んでいる。

 何度も、謝っている。









 それが、一番悲しい。














 ✳︎



(……事故のときに衝突した看板が落下して、その下敷きになったのでしょう)


(なんでよ! おかしいでしょ? それで、事故を起こした張本人は生きてたわけ? なんで、真彩たちが、こんな目に合わなくちゃいけないのよ!!)


(……さん、落ち着いて)


(落ち着けるわけないじゃない! しかも、運転手を助けようともしなかった野次馬たちは、ピンピン元気にしてて、助けようとした真彩たちが死にそうだなんて、絶対ありえないじゃない!!)


(……さん、落ち着いてください。真彩も和臣さんも、恨んでなんかないはずです)


(!! 田中さん。……じゃあ、私が恨みます。真彩たちの代わりに!)


(あの子たちは、そんなの望んでないわ)


(でも……)






 ✳︎


「千尋……ありが、と…………。でも、恨んでなんか、ない……から……」


 朦朧とする意識の中、千尋たちの会話を聞いて、おおよその事情は理解できた。


 そこで、声を試しに出してみたのだが、思うように出なかった。


 次に目を開いてみるが、まぶしすぎる光で、何も見えない。


 そのとき、右手に誰かが触れる感触があった。


「真彩! 意識、戻ったの!?」


「そ、そう、みたい……」


 うわぁぁぁぁん、と子供みたいに泣きじゃくる千尋の声が耳元でした。


 でも、そんな千尋を気遣うことよりも、もっと先に確認したいことがあった。



「千尋。和臣さんは……?」



 その瞬間、その場にいた人たちの息遣いがピタリと止んだのを感じた。まだはっきりとはしない視界の中、その空気だけは痛いほど突き刺さる。



「……和臣さんは、真彩を、庇って…………頭に直撃して……即死だって……」


 喪失感。悲観。苦痛。虚無感。罪悪感。不幸。


 複雑な思いと複雑な理解とが絡まって、言葉を失う。



 しかし、驚きはしなかった。





 だって、夢の中で、彼が何度も謝るのを聞いたから。「僕は君を守れなかった」と。




 あなたが、謝ることないのに。

 あなたは、何も悪くないのに。


 あなたが悲しんでいると、苦しんでいると、私も辛いの。


 どうしようもなく。









 そして、そんなに謝るということは、きっと…………。




「私の命も……もう短いよね?」



 千尋の手がビクリと震えた。


「なっ……! 何バカなこと言ってるのよ! 真彩は、絶対に死なな……」


「千尋。同情なんか……いらない。親友なら、真実を……教えて。あなたの、最大限の知識を使って、正確な情報を……」


 視界がやがて明確になり、すぐ目の前にあった千尋の顔を見つめた。彼女は、一瞬うつむく。しかし、次の瞬間には、あの仕事の時の顔つきになった。


「真彩は、事故後、なんとか手術をして、一命をとりとめた。だけど、臓器はいくつか使い物にならなくなっていて、本来なら即死でもおかしくない状態だったの。今は延命治療のおかげで、本当に奇跡的に生き延びているだけ……」


 千尋は、そこまで言い切ると嗚咽を漏らして泣いた。私は、そんな千尋の頭を優しく撫でる。その撫でた手も、生きている者とは思えないほど、変わり果てていた。


 私はすぐに自分の腕から目をそらした。


「ありがとう。本当のことを、教えてくれて。私がもし、千尋の立場だったら、怖くて話せなかったと思う。千尋はすごいよ……最高の親友だ」


 顔の筋肉にできる限り力を入れて笑う。




 死を宣告されて、私は思いのほか恐怖を覚えなかった。


 それは、すでに大切な人を亡くしてしまっていた、というのもあるが、それよりももっと大事なものがあったから。




 託すべき人がいたから。






「千尋」

「なに?」

「今から私が言うこと、一文字も漏らさず聞いてね」



 千尋と私の視線が絡み合う。


 千尋が強く頷いた。



「まず、巧海は、お父さんとお母さんに育てて欲しいの。お願いできる?」


 千尋のすぐ真後ろにいた父と母が、涙で顔を濡らしながら何度も何度も頷いた。



「それから、体外受精をしている子」



 千尋の鼓動が跳ね上がるのが、繋がれた手から伝わってきた。


 私の鼓動も同時に高鳴る。




「千尋に育ててもらいたい」








 ✳︎


 ずっと、千尋には子供ができなかった。何度も流産をした結果、ついに子を産める体ではなくなってしまったからだ。


 そして、うちの両親は二人もの子を育てられるほど裕福ではないし、年齢的にも厳しいだろう。もちろん、和臣さん方の家族も難しい。



 だから、私は娘を彼女に託そうと思った。



「お願いできる?」



 千尋の目から大きな雫がこぼれた。


「ありがとう。絶対、大切に育てます。真彩と和臣さんの分まで、たくさん愛情を込める。約束する」


 千尋は私の手を強く握った。


「約束する」


 その力強い言葉に、私は安堵する。


 ____大丈夫。彼女なら、任せられる。任せて、逝ける。



「その子の名前ね、もう決めてるの。だから、名前は私が考えたものにしてほしい」


「……わかった。なんて名前?」


 私は、もうこの目で見ることは出来ないであろう我が娘のことを思い浮かべた。



 あなたは、巧海の妹。

 名前は……。



彩美あやみ。『彩る』に『美しい』で、『彩美』よ」



 その瞬間、私の目の前には一つの景色が見えた。


 巧海と彩美が、色の溢れる世界で、幸せそうに笑いあっている景色が。



「素敵な名前ね」


 どんな由来なの? と千尋が聞いてきたので、私はその思いを伝えた。


「巧みな海を、美しく彩る。兄妹で力を合わせて、生き抜いて欲しい。それが、由来」


 まあ、真彩の『彩』の字を付けたかったという本心もあるのだが。



 しかし、それを彩美に伝えるのは彼女が大きくなってから。世界をよく見て、彼女の中に大切な何かが生まれたその時に。


 それまでは、普通に幸せな家庭で育った女の子としてほしい。


 だから、名前は『川口彩美』にする。


 真実を知って、その後も川口でいたいと本人が言ったのならそれでいい。やはり自分は伊東和臣と伊東真彩の子だから苗字を変えたいと言ったのなら、『伊東彩美』になればいい。


 それは、彩美に任せる。



「そういうことで、よろしくお願いできる?」


「わかった。命に代えても、その約束を果たす」


 大げさだなぁ、と笑っていると、ふいに眠気が襲ってきた。


「あ……ごめん、ちょっと……眠く……なって、きた……から…………」











 私は、暗闇にまた戻ってきた。









 ✳︎



 ねえ、千尋、どこ行ったの?


 お父さんとお母さんは?


 ねえ、いたら、返事してよ。お父さん、近くにいるんでしょう? また、私が小さかったときみたいに、ライトを三回照らしてよ。



 暗くて何も見えないの。ひとりぼっち。寒いし、体が重いし、とにかく寂しい。


 誰か、助けて。お願い!!


 怖い。怖い。怖い!





 これが、死……?






 一人で、こんな真っ暗闇の中、消えてゆくだけなの?


 私は、こんなにも寂しいまま朽ち果ててゆくの?


 ねぇ、やだ。


 死にたくない死にたくない死にたくない!!



 嫌だ嫌だ嫌だ。



 なんで、なんで、なんで!

 なんで私なの!? 世界にはもっともっと大勢の人がいるのよ? なんで、よりによって、その中の私なのよ!!



 なんで、私が死ななきゃいけないの!



 ありえない。私が死ぬわけがない。死ぬなんて、絶対にない。そうだ、これはきっと悪い夢。


 夢なら覚めて。誰か助けて!






 …………。


 何も、変わらない。やっぱり、夢じゃなくて、現実なの?




 苦しい。辛い。寒い。怖い。痛い。泣きたい。もう、嫌だ。




 死にたくない。


 こんな人生を呪いたい。




 こんなことになるなら……。




 私以外みんな、死ねばいいのに!!!












 ✳︎



 隣で温かい何かが光った。


 それは、無機質な暗闇の中で、唯一明るくて幸せなものだった。



“真彩”



 聞き覚えのある声。

 私の大切だった人。



“落ち着いて。真彩らしくない”



 落ち着けるわけない。だって、私、死んじゃうんだよ?



“大丈夫。僕がずっと隣にいるから。真彩は一人じゃない”




 ああ。


 たった一人の人。だけど、彼がいるだけで、私の暗闇の世界は一気に光の世界へと変わった。





“一緒に行こう。そして、巧海と彩美を見守ろう”




 体が軽くなる。

 痛みも苦しみも、悲しみも、いつの間にか無くなっていた。






“ライオンは、ゆっくりと空を見上げる”


“その空は、自由という名の色で満ち溢れ、孤独とは反対のものだった”


“彼はもう、一人じゃない。だから、これからも歩いていける”


“大丈夫”


“色は自由なのだから”


























 ✳︎




 2004年。


 伊東和臣、伊東真彩。

 共に享年28歳。


 長男巧海と、まだ誕生していない長女彩美を残して、この世を去ったのだった。
















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