「海の色は何色」23


 *


「退院おめでとうございます。お大事にお過ごしくださいね」

「ありがとうございます。一週間、お世話になりました」


 僕は、無事退院をした。大事をとって、一週間もの間入院させてもらって正直申し訳ない。僕よりももっと重い疾患を抱えている人だっているはずなのに、たかが海に溺れたくらいで貴重な病室を減らしていいのか、と。


 ああ、でも。


「たかが」なんて言ったら、誰かさんが顔を赤くして、涙目になりながら怒りそうだ。


 この一週間、真彩のことを思わなかった日は一度もない。真彩自身が毎日見舞いに来てくれたというのもあるが、それだけではない。


 退院したら、結婚したいと言おうと思っていたからだ。


 付き合いをすっ飛ばしていきなり結婚、というのはかなりハードルが高い。しかし、僕には譲れない理由がある。


 それは、真彩の父、一真との約束があるからだ。






 *


 真彩と喧嘩したあと、一真に会いに行ったあの夜のときのこと。

 いつか結婚すると約束したときだった。


「……おかしな願いをするんだが、もし真彩がアンタのことを好きだと言ったのなら、すぐに結婚してやってくれないか?」


「え? な、なんですか急に!?」


 僕は赤面する。女の子と付き合ったことはこれまで何度もあるが、すぐに結婚のプロポーズをするなんてありえないし、聞いたこともない。


「実はな、俺の親父は今年95になるんだ」

「……すごい長生きですね」

「親父は図太いからなぁ。ほんの数年前まで普通に網を引いてたくらいだ」


 一真の目は、どこか遠い日を見つめていた。


「だけど去年くらいかなぁ。物忘れがひどくなって、病院で検査してもらったら認知症だったんだよ」


 認知症。それは珍しくはない、誰にだって起こりうる疾患。年齢を重ねれば重ねるほど、その確率は上がる。


「症状はどんどん悪化して、ついには俺のことも忘れちまった」

「それは、お気の毒に……」

「いや、俺のことはいいんだ。だがよ、そんな状態の中、ひとつだけ忘れてない約束が親父にはあってな」


ひとつだけの約束。

それは、一体……。



「『孫の花嫁姿だけは絶対に見るんだ』っていつも呟いてるんだ」



 頑固な親父だろ? 一真は優しく笑った。こんな表情もこの人はできたのか、とやはり僕は変なところに感心した。


「けど、その状態もいつまで持つかわからねぇ。そのうち言葉を話せなくなるかもしれない。だから……」


 親父が真彩を覚えている間に、結婚させてほしいんだ。


「……真彩をよろしく頼む」


 目頭がなんとなく熱くなった。いかん、ここで泣いてはいけない。僕は、彼らを安心させないといけない。ドンと構えなくては。


「わかりました」


 僕は強く頷く。しっかりと、彼の目を見据えて。どこまでも、まっすぐな瞳で。


「ふん」

 好きにしろ、と一真が言う。きっとこれは、彼の口癖なのだろう。



 しん、と沈黙が落ちる。




 だけど、僕にはこういった張り詰めた空気は向いていないから、一真のことを茶化すことにした。


「その割には、真彩さんの結婚にあまり積極的ではない様子でしたよね? 田崎さんも、拒否してたとか言ってたし」

「……うるせぇな! 大事な娘だから、変な男に捕まらせたくないんだよ! 親父よりも娘優先に決まってんだろうが!」

「はいはいはいはい! 親心が強いですね!」

「おい和臣、あんまり調子乗るんじゃねえぞ!」




 夜の海に、僕らの騒ぎ声が響いていた。






 *


 そんなわけで、僕は約束通り早く結婚をする。する。するんだ。


 いや、でも、真彩に拒否されたらどうしよう。「確かに好きだけど、まだ結婚なんて考えられない」とか。だって、聞いた話によると、あの子が異性を好きになったのは僕が初めてだという。当然、キスも初めてだし……男女の営みだって……。


 僕はそこで、ふと疑問に思った。


 そもそもそういうことをするってことを、彼女は知っているだろうか、と。


 いや、でも学校とかで習うよな、そういうの。赤ちゃんの産まれ方とか、習ったよな。そんで、ガキだった僕らはギャーギャー騒いでたっけ。女子はそんな僕ら男を冷めた目で見てたなぁ。


 こういうのは男だったら、誰もが知っている内容だが、女の子たちはどうなのだろうか。わからない。とくに、あまり学校に馴染めなかった真彩は。


 もし、そういうときが来て、僕が彼女をベッドに押し倒したりしたら……怖がって嫌ったりするのだろうか……。


「って、僕は何を考えてるんだ! こんな真昼間から!」


 しかもこれから真彩に会ってプロポーズをするっていうのに。


「忘れろ忘れろ。とりあえず、いやらしい考えを一切なくせ、伊東和臣。忘れろ。真彩の前で、そんなこと考えちゃダメだ。ダメだぞ」


 声に出して、全力で自分に暗示をかけていた、そのときだった。



「いやらしいことって、一体何を考えていたの? 和臣さん」



 背筋に悪寒が走る。


 顔が引きつっているのが自分でもわかった。後ろを向くのが怖い。怖いが、向かないと不自然だ。




 それにしても……!


 なんで、なんで、なんでこうも超バッドタイミングで君は来るのかい?



「ま、真彩……」


 振り向くと、そこには顔を引きつらせた真彩がいた。


「病院のロビーで、こんな真昼間から、和臣さんはを考えてたの?」

「いや、えっと、こ、これは不可抗力で……いや、もし僕が君をベッディング、とかしたら、君が怖がったりしないかなぁ、って、まあ色々と心配してて……あ、その、いや、これは違くて……」


 僕は、自分で自分の首を絞めるような発言を次から次へと繰り広げていた。弁解しようとすればするほど、危険な道へと進む僕の口。頼むから、これ以上ボロを出すな!


「和臣さん」


 一段と冷たく重い声が僕の口を一瞬で閉じさせた。


「ゆっくり話を聞いてあげるから、おもて、出ようか?」


 真彩は口をクイッ、と上に上げて笑っていた。でも、目は全く笑っていない。怖い。怖すぎる。


 多分、これが今までで一番怖かった真彩だろう。





 *


「それで、私が何も知らない純粋な女の子だと思ってたの?」


 僕らは今、公園のベンチに二人で並んで座って話している。周りにはほとんど人がいなかったので、少し安心する。……いや、前言撤回。全く安心できる状況ではない。


「……まあ、そういうことになるかな」


「バカにしすぎ! 私だって、そのくらいの常識はあるから! あなたが言おうとしてることの意味も、ちゃんと理解してる!」


「え、じゃあ説明してみて」


 真彩は一瞬固まって、顔を赤くする。しかし、次の瞬間には「女の口からなんてこと言わせようとしてるのよ!!」と怒号が飛んできた。


「わぁぁ、ごめんなさい、ごめんなさい!!」


 僕は必死に謝る。


 いや、本当にごめん。僕は、恋愛経験に関しては、君はウブで超純水な女の子だと思っていた。そりゃ怒るよな。


 僕の必死の謝罪を見て少しは怒りが収まったのか、真彩はふぅと溜息をついた。


「それで、なんでそんなこと考えてたの? まさか、和臣さん、退院してすぐそういうことしようとしてたの?」


「いや、そういうわけじゃない、けど……」

「けど?」


 今日の真彩はやけに突っ込んでくる。なんだろう、僕と会う前に誰かと恋愛のことでも話したのだろうか。いつもより、色気があるように見えるのは僕の希望的観測か。


 僕は説明に困ったが、言わないわけにはいかないので、素直に口に出した。


「なぁ、真彩は僕が結婚したいって言ったら嫌がるか?」

「な、なに、急に……」


 まあ、普通はそうなるよな。僕も一真から聞いた時はそうだった。


「一真さんはまだ真彩に話したことないって言ってたけど、君のおじいさんが認知症なのは知ってるよな」

「う、うん。それが何か関係あるの?」

「大アリ。おじいさんは、一真さんのこともわからなくなってしまったらしい。それでも、ひとつだけ忘れてないことがあって……」


 ゴクリ、と唾を飲み込む音がした。真彩だ。



「孫の花嫁姿を見る約束」








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