『海の色は何色』7


 *


「何やってんだ、バカ」


 砂浜にへたり込んでから、僕は己を叱責した。


 全部、図星だった。彼女の言うことは正しかったし、彼女は僕のことを思って伝えてくれた。きっと、何度も何度も考えたのだろう。勇気を出してくれたのだろう。自閉症という壁を乗り越えて、僕の心に直接投げかけてくれた。


 本当は、そう言ってくれる人がいるだけで嬉しかった。自分を理解してくれる人がいてくれて、安心した。


 だけど、心とは裏腹に、言葉は辛辣になってしまう。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。どうして、素直な気持ちを出せなかったのだろう。


「帰れって、僕のセリフじゃねぇだろ」


 僕が帰れよ、と思う。


 だって、彼女にはお父さんの無事を確認するという、大切な仕事が残っていたはずだ。本業の仕事までは、まだまだ時間があったのに。


「はぁ」

 ため息をつくと同時に、ポツリと冷たい感触を感じた。


 あ、雨だ。と思った時には、雫がどんどん落ちてきて、やがて本降りし始めた。春雨前線とかいうやつか。確か、中学の理科で習った。


「やべ、アイツの宝物」


 ダンボールは、元の黄土おうど色から濃い茶色へと変化していた。僕は青色の識別はできないが、それ以外なら普通の人と同じだ。


(とりあえず、屋根あるとこ行こう)

 辺りを見渡すと小さなボロ小屋があった。人は……今はいなさそうだ。


 ダンボールを両手で抱えると、かなりの重さがあって一瞬倒れかけてしまった。一体、どんな宝物があるのだろうか?


 とりあえず、ポケットに入れていたタオルでダンボールの表面を拭いた。気休め程度だが、幾分か乾いただろう。


「……ホテル戻るか」

 僕はダンボールを出来るだけ雨に濡れないように守りながら抱え、ホテルへと向かった。



 *


 僕がチェックインの手続きをしている間に、スタッフさんたちがタオルを用意しておいてくれた。


「雨の中お疲れ様です」という決まり文句をかけられたが、実際僕は本当に疲れていたので思わず苦笑いしてしまう。


「そのダンボール、お持ちしましょうか?」


 スタッフさんは、僕の足元に置いてあった大きな荷物を半ば怪訝そうに見つめていた。絶対に怪しんでいる。


「いえ、大した荷物じゃないので、お構いなく」

 サラリと流して、僕はエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。



 部屋に着き、ダンボールを床に置く。


 本当は今すぐにでも中身を見たいところだが、僕の体は雨でビショビショだったので、とりあえずシャワーを先に浴びることにした。




 *


 シャワーを浴びながら、昔のことを思い出していた。



 初めて文字を自分から書いたのは、母親への手紙だ。確か、僕が幼稚園に通っていたときだったから5歳か6歳くらいだったと思う。文字の読み書きは、母が既に教えてくれていたので出来ていた。


 両親が離婚して、僕は父の方に引き取られた。しかし、当時『離婚』の意味をわかっていなかった僕は、いつか母が帰ってくるものだと思っていた。


 毎年、幼稚園のお泊まり会で家族と離れる時には、母は必ず僕に手紙を書いてくれていた。だから、僕も同じようにと思って、書きはじめたのだ。





 1日目は、『はやくかえってきてね』。


 2日目は、『さみしかったら、おうたをうたうといいよ!』。


 3日目は『おかあさんのおとまりはながいね。ぼくさみしい』。


 4日目は、『おとうさんのつくるごはんもおいしいけど、おかあさんのつくるごはんもたべたいな』。





 これら全て、折り紙の裏に書いてはカブトの形に折って、母のデスクに並べていた。


 しかし、5日目で状況は一転した。



「お前の母さんは、もう帰ってこないから」



 父親がそう冷たく言い放って、デスクの上のカブトをビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。


 僕は、笑った。本当は泣きたかったけど、『泣きたい時ほど笑え』と母に教わっていたから。目に涙を溜めながら、「あは、あはは、ははは!」と不自然に口角を上げて。


 そこで、初めて『離婚』という言葉の意味を知ったのだ。




「あのときのオヤジは酷すぎるよなぁ。だって相手はまだ園児だぞ」

 とブツブツ言いながら、シャワーの勢いを強くして、声をあえてかき消す。



 それからは、文字を書くのが怖くなってしまったのだ。僕が良かれと思って書いても、誰かはそれを嫌がっているかもしれない。迷惑かもしれない。それを思うと、ペン先はカタカタと震え出してしまう。


 しかし、それも一時期だけのことで、小学校に入学し、文字を書かざるを得ない状況に置かれてしまえば、案外すんなりと書けるようになった。



 作家になろうと思ったのは、中学に入ってから。当時、僕の人生では5人目の彼女に言われた言葉に動かされたのがきっかけだ。


「アンタ文才あるからさ、本とか書けばいいんじゃない?」


 国語の授業で、『授業で扱った物語の続きを書いてみよう』という課題が出されたときだ。クラスみんなで、自分たちの作品を回し読みするのだが、そのときに隣の席にいた彼女に言われた。


「突然どうしたのさ? まさか、僕を惚れさせようとでもしてんの?」


「それならとっくの通りに、アタシに惚れてるでしょ。惚れてないのなら、別れた方がいいわね」


 冗談でも笑えないようなことを言われ、少しドキリとしたのを今でも覚えている。


「それで?」

 とりあえず先を促した。


「アンタの家、お母さん離婚しちゃったんでしょ。でもさ、アンタが本名のまま本とか書いて売ったらさ、どこかでお母さんが読んでくれてるかもしれないじゃない?」


 その瞬間、僕の目には母が僕の本を手に取る姿がすぐさま思い浮かんだ。


「……いいね、それ」



 そして、雑誌のコンテストに応募したら見事一発で通った。


「やるじゃん」

 コンテストに選ばれたときには、既に6人目の彼女が出来ていたが、5人目だったその子も祝福をしてくれた。





「そのあとが辛かったんだよな」

 誰に問いかけるわけでもなく、僕は呟く。



 正直、自分の作品を貶されていたときのことは思い出せない。人間、嫌なことはすぐに忘れるというけど、まさにその通りだと思う。


 ただ、初めて売り上げが伸びたときの苦い気持ちは忘れていない。周りの人から褒められたけれど、これを母親に読まれるのは嫌だった。これは本当の僕じゃないんだって、直接言いたかった。




 母は、今、元気にしているだろうか。


 父は少し前に、体を悪くして入院をしているらしい。高校卒業して、すぐに一人暮らしを始めた僕は、風の噂程度で父の現状を知った。念のため、電話をかけたところ、「お前は自分のことを心配しなさい。俺も自分のことくらい、自分でなんとかするから」と言われて、シャットアウトされた。



 母も病気になったり、していないだろうか。


 僕のことを覚えているだろうか。






 書きたい。

 ふいに、強くそう思った。




「母さんへの、物語を書きたい」







 初期作は全て、母に送った物語だ。母のために、僕自身が物語だ。



 しかし今は、世間や評判、売り上げなどに縛られながら、物語しか書けていない。




 *


 僕は浴室を出て、すぐにダンボールの中を確認した。


「これ……は…………」







 僕は、その宝物たちを時間をかけて丁寧に読んだ。





 そして、腹をくくった。




「もう一度、会いに行かなきゃ」









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