『海の色は何色』9


 *


 午後6時半。辺りはすっかり暗くなっている。


 担当の編集者から先程電話がかかってきた。そして、激怒された。……そりゃそうだ。だって、周りに迷惑がかかるようなことをしたのだから。


 まあ、でもこれでいい。後悔はしていない。これが、僕の選択。





 さて、僕の選択はもう一つある。そして、それが一番の難題。


「お、かずちゃん。体冷えるから、中入っちまいなよ」


 数時間前に、僕が一時的な雨宿りのために不法侵入した小屋の持ち主、田崎が声をかけてくれた。


「お気遣いありがとうございます、でも大丈夫です」


 本当は寒いし、中に入りたい。しかし、ここで寒さなんかに負けたら、に認めてもらえない気がする。


「頑固なやつだなぁ。ま、好きにしろよ」

 そう言って、田崎はタバコを吸った。





 *


 時はさかのぼり、2時間ほど前。僕は、もう一度あの浜辺へ来ていた。


「ホテルには金払ったし、監督さんと編集長にも連絡したし、欠席のお詫びの品も用意したし……うん、もう大丈夫だ」


 ……あとは、を待つだけ。


 自分でも、なぜこんな判断をしたのかわからない。確かに、僕は恋に積極的だけど、こんなにも本気になったことはなかった。気分は、弱小大名が天下布武を目指している感じだ。……なんて言ったら、信長公に失礼かもしれないが。


 でも、こうしなきゃ腹をくくれない気がした。小説も、僕自身も……もちろん、彼女も。





「おー、朝方のホテル兄ちゃんじゃねぇか」


 突然聞きなれない呼び名が真横から聞こえてきたので、思わず僕は固まってしまった。


「アンタだよ、アンタ。『ホテル兄ちゃん』ってのは、ただのジョークだから気にすんな」


「あ、あの……どこかで、お会いしましたっけ?」


 やっとのことで声を出すと、その人は「がっはははは!」と豪快に笑った。……悪い人じゃなさそうだけど、なんだかこっちは不愉快。


「アンタ、気づいてなかったのか? 俺はずっとあの小屋ン中にいたんだけどなぁ」


 そこで、僕はようやく目の前にいる人が小屋の持ち主だと知った。


「あ、そうですか。……今朝はすみません。勝手に入っちゃって」


 彼は、夏でもないのに、真っ黒に焼けた肌が目立つ。「普段は何をしていらっしゃるんですか?」とさりげなく聞くと、「漁師だよ」と彼は短く答えて、僕に紙コップに入ったお茶をくれた。喉が渇いていた僕は遠慮なく飲ませていただく。


「アンタの好きな女の子のオヤジさんと一緒にやってる。案外楽しいぞ。命の危険もあるがな」


 がっはははは! 彼はまた、大口を開けながら歯を見せて笑った。でも今度は不愉快にはならない。それよりも、もっと驚愕する内容があったからだ。


「あの、もしかして真彩さんのことですか?」


「おう」

 そして、彼はニヤリと不敵な笑みを浮かべて、


「兄ちゃんは、あの子に惚れてんだろ?」


「ンごぼっ!!」

 思わずお茶を吹きこぼしてしまった。こういうとき、漫画では綺麗に噴き出しているが、現実の僕は口からだらしなく液体をこぼしてしまった。


「汚ねーなっ、おらよ」

 嫌そうな顔をしながらも、彼は洗いたてのタオルを渡してくれた。なんだかんだ言って、彼は世話を焼きたがる良い人なのかもしれない。


「あの、……あなたは」

「田崎だ」

「た、田崎さんは、田中さんのお父様とどれくらい親しいですか?」


 フン、と彼は鼻を鳴らした。


「ンな回りくどい言い方しなくたっていいんだよ。要するに、アレだろ……真彩ちゃんを奪いたいから一発殴ってくれってやつだろ」


 内容がいくらかズレてはいる。だが、意図は合っていた。そのことをいちいち訂正するのも面倒なので、とりあえず僕は頷いた。


「田中は本当に遅くまで帰ってこないぞ。夜の10時とか、運が悪けりゃ12時過ぎだ。それまで待てるか?」


「構いません。いつまででも待ちます」

 僕は即答していた。


 田崎は、もう一度フン、と鼻を鳴らす。だが、そこには満足そうな息が混じっていた。




 *


 行き当たりばったりな、無謀な計画。でも、だからこそ、僕は彼女に対して本気なのだ。中途半端な付き合いはしたくなかった。


 だから、彼女のオヤジさんに会って、話をつける。



 ……それにしても、と思う。


 こんなにも、海辺とは綺麗なものだっただろうか。


 僕は、色覚異常があるから『青色』がどんな色かはわからない。広大な海も空も、僕には薄暗い無機質な温度しか感じられない。


 しかし、そんな僕でも素直に綺麗だと思った。それは、真彩のいる場所だからか、高鳴る気持ちがそうさせたのか、本当に綺麗だからなのか……おそらく全部だ。僕がここにいる全てが綺麗なのだ。



 色が見えたのなら、どれだけ感動するのだろうか。とは、思う。


 海の色に思いを馳せながら目を凝らすと、小さな白い灯りが目に付いた。


 しかし、様子がどうもおかしい。3回ほど点滅したのだ。もしかしたら難破したのかもしれない。


「田崎さん、あの、ぎょ、漁船のライトが点滅してて…」


 慌てて僕が小屋の中に呼びかけると、「うるせぇな、すぐに来るわけじゃねぇんだからちっとは待てよ」とグダグダと言いながらも出てきてくれた。


「ああ、ありゃそうだな、田中ンとこだ。にしても、兄ちゃん、運がいいなぁ。今日は早い方だ」


「え、これで早い方!?」


 だって、もう夜の9時近くだ。良い子は寝る時間、なんて世間では言われているのに。


 田崎は、「これだから都会の子は」とため息混じりにつぶやいた。


「……真彩ちゃんが生まれる前からずっとこんなかんじだぞ。これが当たり前なんだ」


 でも、きっと寂しいもんは寂しいんだろうなぁ。田崎はどこか遠くを見つめながら続ける。


「真彩ちゃんが毎日ここに来る気持ち、わかんだろ?」


 そう言われて、グ、と胸の奥が縮まった。


 確かに、本人から話は聞いていたが、内心「そこまでするかな」と思っていたりもした。


 でも、今、すごくわかった。


 失ってしまうかもという、不安な予感。痛いほど、怖い気持ち。会えない寂しさ。


「んで、先に忠告しとくと……真彩ちゃんのオヤジも相当だぞ。真彩ちゃん愛が強すぎるからな。覚悟しとけ」


「……はい」





 真彩。


 ごめん。僕は、君のことをわかったつもりでいた。けれど、何一つわかっていなかった。


 でも、そんな君と、この海をもう一度眺めることが出来たのなら。


 その時は、君の隣にいてもいいだろうか。





 そして、聞いてみてもいいだろうか。



 ____「海の色は、何色?」と。








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