『海の色は何色』12


「……だから、これ以上一人で苦しまないでください」


 今にもこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えて、私は口角を上げた。私が泣いてどうする。私が笑って、和臣さんに大丈夫だと安心させるんだ。


「はい」

 彼の優しい、優しい声が、心の奥に落ちていった。




 *


「ところでさ」

 和臣さんは、本棚の上部を指差した。


「あそこの空間は、これのことかな?」

 そう言って彼は、部屋の外に置いてあったダンボールを抱えて持ってきた。その中には、伊東さんが手がけた本すべてが入っている。

「はい! あ、ていうか、その……置き去りにしてしまって、ごめんなさい」

 と謝ってから色々と迷惑をかけたことに気がついた。

「あ、あとは、ホテルとか一部屋貸していただいたり……」

「それくらい、どうってことないし」

 そこでさらに、もっと重大なことに気がつき、思わず「あぁっ!!」と声を上げてしまった。

「ちょっと、真彩さん落ち着いて……」

「か、和臣さんっ……今日の夕方にはここを発たないといけないんじゃ……」


 確か、試写会の日程が早まったとかで今日の夕方には出る、と。


「ああ、それならもうキャンセルした」

「は、はいっ!?」

「それと、かなりしばらくの間こっちに住むことにした」

「え、ええっ!? ど、どどどこに? まさかずっとホテルに?」

「それはさすがに破綻するから。知人の家だよ」


 淡々と語る和臣さんについていけず、私は一人焦る。

 そんな私を見て、和臣さんが「ぷっ」と吹き出した。


「ほんとにせわしいなぁ」

「だっ、だって! 試写会なんて大イベントをドタキャンして、しかもこっちに住むなんて……むしろ和臣さんがどうしちゃったんですか!?」


 すると和臣さんは「やるべきことが見つかったんだ」と言った。


「やるべきこと?」

「そう。僕の、やるべきこと」


 それは一体何ですか。そう聞けるほど、私は無遠慮ではなかった。

「じゃあ、私もサポートします」

 と言ってから、「あ、生意気ですみません」と慌てて詫びを入れる。和臣さんはううん、と首を横に振った。


「これ、読ませてもらったよ」

 そう言って和臣さんが懐から出したのは、色褪せたノートだった。国際信号旗のノートと色違いの、大学ノート。その表紙には『伊東和臣作品 感想ノート』と書かれていた。今朝までは、そのダンボールの中に一緒に入っていたものだ。


「すごく、細かく書かれてて驚いたよ。作者の僕ですら、気がつかないような点にまで、きちんと着眼してる。初期作品も、今の作品も、全部だ」


 当たり前じゃないですか。だって、あなたの作品だから。あんなに素敵な物語だから。


「ありがとう」

 和臣さんが私の目を見た。


「こんなに僕の作品を愛してくれて……僕のことを思って、本当は違うのに『嫌い』だと言ってくれて」


 真っ向から礼を言われるとなんだか恥ずかしくて、「あ、バレました?」とわざと軽い感じで答える。さらに話題をそらすため、「それにしても、なんで父と一緒に帰ってきたんですか」と尋ねた。


「ああ、まあ僕なりのけじめというか……」

「けじめ?」

「い、いやぁ、まあ……そのうちわかるから」

 何故だか、和臣さんの顔が赤くなっていた。まあ、いいか。とりあえずは、仲直りできたのだから。


「とにかく、僕はしばらくこの地に滞在する。だから、また明日からもよろしく」


 私は嬉しさで胸がいっぱいになりながら、「はい!」と元気よく答えた。



 しかし、何が気に入らなかったのか、和臣さんはむすっとしている。


「あ、あの……?」

「敬語」


 和臣さんは、ピシっと私を指差した。


「もう名前で呼び合う仲だし、こっちは普通に話してるから、そっちも敬語ナシでいいよ」

「で、でも……和臣さんの方が年上ですし」


 それに、あんな有名で人気な作家さんだし。私なんかが呼び捨てしちゃいけない気がする。


 そう思って俯くと、「今、くだらないこと考えてたよね?」と和臣さんの低い声が返ってきた。

「僕が作家だからとか、そんなの気にしなくていいし、むしろ尊敬するなら僕の方なんだ」

「え……?」

「真彩さんのおかげで、ありのままの自分でいようって思えたし、もう一度本を書くことの楽しみを思い出したんだ。だから、真彩さんの方が立場は上!」


 少々、いやかなり強引なこじつけではあるが、そこに和臣さんなりの優しさを感じた。


「わかった。そのかわり、名前の呼び方は『さん』付けにさせて。で、そっちは呼び捨てでいいから」


 これが、私なりのけじめだ。



 すると、和臣さんもニコッと笑い「じゃあ、真彩。おやすみ」と別れの挨拶を交わしてくれたのだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る